| 1942年(昭和17年)の双葉山相撲道場(のちの時津風部屋)発足で粂川が弟子全員を双葉山に譲ったため移籍。 |
| 初めは突っ張って前に出て残されれば左1本差しで寄るという速攻の取り口だったが、幕下時代不動岩との稽古で左膝に負傷、再起を危ぶまれたがどうにか回復しその後は組み止める取り口に変わった。 |
| 東冨士にはよく稽古をつけられていたが、応召中に双葉山が東冨士に敗れるのを知るといつか東冨士を倒そうと心に決める。 |
| 1949年(昭和24年)10月場所でその東冨士から金星を挙げて恩を返す。 |
| この場所は前頭筆頭で12勝3敗、三賞制定後初の複数受賞(殊勲賞と敢闘賞)で翌1950年1月場所から関脇。 |
| 1951年(昭和26年)1月場所後に大関昇進が決まった時には自分が大関に昇進するとは夢にも思っておらず、友人の見送りにやって来ていた東京駅の場内放送で呼び出されると慌てて時津風部屋に引き返したという逸話がある。 |
| 1953年(昭和28年)1月場所で初優勝、場所後に横綱推挙が決まるが相撲協会が横綱審議委員会に諮問せず推挙したため、周囲からは時期尚早の声も出た。 |
| 入れ替わりに照國が引退。 |
| そのため、羽黒山、照國、東冨士、千代の山、鏡里の5横綱が並んでいる写真が存在する。 |
| 1955年(昭和30年)9月場所、1956年(昭和31年)1月場所と連覇、同年9月場所にも優勝、4回の優勝は全て14勝1敗であり次こそは全勝と言っていたが果たせなかった。 |
| それでも当時の横綱千代の山、吉葉山、栃錦、そして当時大関の若乃花といった上位陣との対戦はいずれも勝ち越しており実力のあるところを証明している。 |
| 右四つ得意で相手を組み止めると太鼓腹を活かして技を封じるのが得意なため、当時の技能力士は彼に苦戦したという。 |
| ただし大関時代に鳴門海との対戦で足の指を骨折(ただしこの時は勝っており休場もしていない)して以来、苦手意識を持ってしまい3連敗したこともあった。 |
| 土俵入りは当然双葉山直伝だが、膝の故障の影響か師匠の再現とはいかなかった。 |
| だがその土俵入りは動く錦絵と呼ばれ人気は高かった。 |
| 吉葉山との取組は明治の2代梅ヶ谷・常陸山の対決を彷彿とさせると人気があった。 |
| 1958年(昭和33年)1月場所、中日を終えて3勝5敗と非常に苦しい状況から吉葉山が引退するとマスコミは5勝3敗の鏡里に殺到した。 |
| この時鏡里は「10番勝てなかったらやめる」とだけ言って追い返した。 |
| これは、「横綱の責任を果たせなければやめる」と言ったのに、ある記者が「具体的にはどういうことか?」と食い下がったため、「10番勝てない時だ」と言ってしまったもの、ともいう。 |
| 結局この場所は13日目に負けて6敗になり、自ら目標と語った10勝は不可能になってしまったが、残りは見事に勝って9勝6敗、周囲からはまだ取れるとの声も多かったが、本当に引退してしまった。 |
| 鏡里は大のマスコミ嫌いでこの時自分に殺到したことでそれがますます顕著になったという。 |
| 一言で追い返したのはそれを表したのかもしれない。 |
| 引退の理由には引際を重視する師匠の指導もあったと思われる。 |
| 後に理事を務めたがあいかわらずマスコミとの接触は極端に嫌い、理事会でもマスコミが介入しそうな議題には徹底して反対した。 |
| いつのことかは不明だが、「儂はマスコミは嫌いだ」と言っていた。 |
| 引退した場所でしつこく食い下がった記者が、退職後に再就職した団体からの寄付要請を持って相撲協会を訪れた際、鏡里の反対で話が潰れてしまったという逸話もある。 |
| 朴訥な人柄を反映してか方言が強く、インタビュアーは彼の言葉を聴き取るのに苦労したとも伝えられる。 |
| 双葉山が亡くなると一時的に時津風を襲名したが、結局後継者争いに敗れ、立田山(元大内山)二十山(元青ノ里)ら年寄4名を連れて立田川部屋をスタートし独立、晩年に高道を関取に昇進させ部屋を消滅させることなく停年退職を迎えた。 |
| 停年退職後脳梗塞を患ったことがあるが、元力士にしてはかなりの長寿で80歳まで生きた。 |
| 還暦土俵入りは行なっていないが赤い綱は受け取っている。 |
| 横綱としては83歳まで生きた梅ヶ谷に次いで史上第2位当時。 |
| その後若乃花が抜いたため現在は3位)であるが、本人はもちろん記録更新を考えていた(80歳の誕生日を迎え傘寿祝いに「次の目標は?」との問いに対し「次は88歳の米寿」と答えた。 |
| その事に期待する声もあった。 |
| 故郷三戸町では青森県初の横綱として名誉町民となっていた。 |