| 農業・長蒼生の長男として生まれる。 |
| 中学修猷館、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。 |
| 同期に白銀重二、森赳、中西良介、近藤新八、宮崎周一、一木清直らがいる。 |
| 同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第56連隊付となる。 |
| 陸士予科生徒隊付などを経て、1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業。 |
| 額田坦、今井武夫、片倉衷らが同期にあたる。 |
| 1929年(昭和4年)1月、歩兵第48連隊中隊長に就任。 |
| 次いで参謀本部付勤務(支那課)となる。 |
| 1930年(昭和5年)に橋本欣五郎らと桜会を結成。 |
| 同年12月、参謀本部員に異動。 |
| 1931年(昭和6年)の三月事件・十月事件を計画。 |
| 橋本らと同様に処分を受けるが軽い処分で済んでいる。 |
| 十月事件での長の役割は、首相官邸を襲撃し全閣僚を殺害するというもので、長は新内閣樹立の際は警視総監に就任する予定であったが保護検束されている『昭和史の軍人たち』「長勇」。 |
| 1933年(昭和8年)8月、台湾歩兵第1連隊大隊長に就任。 |
| 第16師団留守参謀を経て、1935年(昭和10年)12月、歩兵中佐に昇進し参謀本部員(支那課)となる。 |
| 兼陸大教官、参謀本部付仰付(漢口武官)を歴任し、1937年(昭和12年)8月、上海派遣軍参謀として出征。 |
| 中支那方面軍が編成された時には、方面軍の参謀を兼務する。 |
| 同年12月朝香宮鳩彦王指揮下の情報主任参謀として、南京攻略戦に参加。 |
| 捕らえた捕虜を「ヤッチマエ」と処刑するように命じ、それを知った松井石根中支派遣軍司令官に窘められたとの逸話があるが、信憑性については議論がある松井石根の専属副官だった角良晴少佐の証言より。 |
| (『偕行』シリーズ(14))一方で、上海派遣軍参謀であった大西一(当時大尉、長の直属の部下)の証言によると、「長参謀がそのような(「ヤッチマエ」)命令を出したと言うことを見たことも聞いたこともありません」と証言し、長による捕虜処刑命令発言の信憑性について疑問を述べている。 |
| (田中正明『「南京事件」の総括』小学館文庫2007年7月114~115ページより)。 |
| 1938年(昭和13年)3月、朝鮮軍隷下の歩兵第74連隊長となり、同年7月、歩兵大佐に進級。 |
| 張鼓峰事件に参戦。 |
| 1939年(昭和14年)3月、第26師団参謀長に就任し、台湾軍司令部付、印度支那派遣軍参謀長、第25軍参謀副長、陸軍省軍務局付などを経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級。 |
| 同年11月、南方軍司令部付(仏印機関長)となり太平洋戦争に出征。 |
| 1942年(昭和17年)7月、兼軍務局付となり、第10歩兵団長、関東軍総司令部付、参謀本部付を歴任。 |
| 1944年(昭和19年)7月、沖縄防衛を担当していた第32軍の参謀長に就任。 |
| 1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進む。 |
| 沖縄戦を戦うがアメリカ軍に追い詰められ、1945年6月23日(22日とする説もある)摩文仁丘の洞窟内にあった司令部で司令官の牛島満とともに割腹自決。 |