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つながりの強いひと
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内藤湖南
中国に於ける時代区分論争などで学会を二分した。 |
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松岡正剛
日本の編集者、著述家、日本文化研究者。編集工学を提唱。京都府出身。東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授を歴任。現在、株式会社松岡正剛事務所代表取締... |
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呉昌碩
呉昌碩(ごしょうせき)は中国の清朝末期から近代にかけて活躍した画家、書家、篆刻家。清代最後の文人といわれ、詩・書・画・篆刻ともに精通し、「四絶」と... |
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岡倉天心
明治期に活躍した思想家で文人、哲学者。本名は覚三(かくぞう)。幼名は角蔵。 |
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鄭孝胥
清末の官僚・満州国の政治家・書家。字は太夷、号は蘇戡・蘇盦等。満州国の初代国務院総理(首相)。 |
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神田喜一郎
東洋学者、書誌学者。号を鬯盦、書室を佞古書屋と称した。 |
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富岡鉄斎
明治・大正期の文人画家、儒学者。日本最後の文人と謳われる。 |
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蘇軾
蘇軾(そしょく、景祐3年12月19日(1036年1月8日)-建中靖国元年7月28日(1101年8月24日))は中国北宋代の政治家、詩人、書家。東坡居士と号したので、蘇東... |
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吉川幸次郎
日本の中国文学者、芸術院会員、文化功労者。 |
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日下部鳴鶴
日下部鳴鶴(くさかべめいかく、天保9年8月18日(1838年10月6日)-大正11年(1922年)1月27日)は日本の書家である。本名は東作。字は子暘。別号に東嶼、翠雨... |
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羅振玉
羅振玉(らしんぎょく)は清末民初から満州国にかけて活躍した考古学者、教育者。字は式如または叔蘊、号は雪堂。明、清時代の皇帝文書を私財を投じて保存し... |
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長三洲
長三洲(ちょうさんしゅう) [ 日本大百科全書 ( 小学館 ) ] (1833―1895) 幕末 から明治中期にかけての漢学者、書家。 漢詩 、 南画 でも非凡であった。... |
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中村不折
中村不折(なかむらふせつ、慶応2年7月10日(1866年8月19日)-昭和18年(1943年)6月6日)は明治、大正、昭和期に活躍した日本の洋画家、書家である。正五位... |
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上村松園
日本画家。明治の京都下京(しもぎょう)に生まれ育ち、女性の目を通して「美人画」を描いた。同じく日本画家の上村松篁(しょうこう)は息子、上村淳之(あ... |
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犬養毅
日本の政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。通称は仙次郎。号は木堂。中国進歩党総裁、立憲国民党総裁、革新倶楽部総裁、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣... |
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巌谷一六
滋賀県出身の政治家、書家。本名は修(幼名は辨治)、字を誠卿といい、一六は号で、別号に古梅・迂堂・金粟道人などがある。児童文学者の巌谷小波は子。いと... |
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中林梧竹
書家。明治の三筆の一人。肥前国小城藩(現在の佐賀県小城市)出身。名を隆経、通称は彦四郎、字は子達。梧竹は号である。また剣閣主人ともいった。家は代々... |
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竹内栖鳳
戦前の日本画家。近代日本画の先駆者で、画歴は半世紀に及び、戦前の京都画壇を代表する大家である。帝室技芸員。第1回文化勲章受章者。本名は恒吉。最初は棲... |
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比田井天来
長野県出身の書道家。「現代書道の父」と呼ばれる。長野県北佐久郡協和村(現・佐久市望月)出身。本名・鴻。その活動は近代日本の書道界において新境地であ... |
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楊守敬
楊守敬(ようしゅけい、YangShoujing、1839年‐1915年)。字は惺吾、号は鄰蘇。清末の学者。湖北省宜都出身。1862年に挙人となり、1865年には景山宮学教習とな... |
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プロフィール
長尾雨山(ながおうざん、元治元年9月18日(1864年10月18日)–昭和17年(1942年)4月1日)は、明治期の日本の漢学者・書家・画家・篆刻家である。狩野君山・ 内藤湖南とともに中国学を開花・進展させたひとりに挙げられる。名は甲、字を子生、号は雨山の他に石隠・无悶道人・睡道人、斎室名に无悶室・何遠楼・思斎堂・艸聖堂などがある。通称は槙太郎。
略伝
| 讃岐高松藩士の長尾勝貞(竹嬾)の長子として香川郡高松(香川県高松市)に生まれる。 |
| 幼い頃から父について漢学を受け、天性の詩才を見いだされる。 |
| 明治21年(1888年)、東京帝国大学文科大学古典講習科を卒業後、岡倉天心に共鳴し東京美術学校の設立に尽力。 |
| また美術雑誌「國華」(現在も朝日新聞出版で刊行)の創刊にも協力しその編集も行っている。 |
| この間、学習院・東京美術学校などで教鞭を執る。 |
| 明治30年(1897年)から勤めた熊本の第五高等学校では夏目漱石の同僚となってよき相談相手となり詩文などでも親交を深めた。 |
| 明治32年(1899年)、東京高等師範学校教授に転じ、東京帝国大学文科大学でも講師を務め、明治35年(1902年)に職を退官し上海に移住。 |
| 当時中国最大の出版社であった商務印書館の招聘に応じて編集顧問となり、中国最初の中等教科書の編纂に従事した。 |
| 書画骨董に通暁し、大正元年(1912年)には岡倉天心の紹介でボストン美術館の監査委員を委嘱され美術品の選別にも携わっている。 |
| 民国2年(1913年)、呉昌碩が西泠印社の社長に就任するに及んで河井荃廬とともにこれに参加している。 |
| 大正3年(1914年)に帰国。 |
| 京都に居(京都市上京区西洞院丸太町上ル)を構え、在野の学者として研究と講学をし、文人とて詩書画三昧の暮らしを送った。 |
| 駐日清国公使の黎庶昌・書記官鄭孝胥・呉昌碩・羅振玉・内藤湖南・狩野君山・犬養木道・副島滄海などの当時一流の学者や文人と交遊をひろめた。 |
| その書は法帖を重んじすべての書体をよくしたがとりわけ草書に優れた。 |
| 詩文ははじめ国分青厓と同じく「明の七子の風」を標榜したがのちには唐詩・宋詩にも影響され独自の詩風を確立した。 |
| 画は墨竹図を得意とし、書画の鑑定に精しかった。 |
| 平安書道会副会長、日本美術協会評議員を務めた他に泰東書道院・日本南画院などに参加した。 |
| 昭和17年(1942年)4月、京都の自宅にて没する。 |
| 昭和40年(1965年)に中国書画についての講演を編集した『中国書画話』が刊行された。 |
| (筑摩叢書、筑摩書房 跋文は吉川幸次郎)。 |
出典
| 成田山書道美術館監修 『近代文人のいとなみ』淡交社、2006年。 |
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1864年
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長尾雨山(ながお うざん、元治元年9月18日 –... |
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1888年
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東京帝国大学文科大学古典講習科を卒業後、岡... |
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