| 生い立ちについては不明で、父・後村上天皇の東宮に立てられていた可能性があるものの『新葉和歌集』春上・37に、「福恩寺前関白内大臣」が寛成親王の立太子を願って詠んだ歌がある。 |
| なお、南朝系図は正平12年(1357年)立太子とする。 |
| 、確証を得ない。 |
| 正平23年/応安元年(1368年)3月、26歳にして摂津の住吉行宮(大阪市住吉区)で践祚し鴨脚本『皇代記』による。 |
| ただし、日付の記録が残っていないため、3月11日(1368年3月29日)の後村上天皇崩御を受けてのものか、あるいは先立って数日前に行われた譲位によるものか、確認しがたい。 |
| しかし、近世の南朝系図は何によってか、3月9日(1368年3月27日)受禅としているものが多い。 |
| 、間もなく弟の熙成親王を東宮とした。 |
| 南朝は北畠親房らの重鎮を失って弱体化が著しく、天皇の事績に関しても明らかでないことが多い。 |
| また、天皇は北朝に対して強硬派の人物であったと考えられ、先代まで何度となく持ち上がった和睦交渉がこの代に入ってから全く途絶したことも、史料の少なさと無関係ではなかろう。 |
| 践祚後間もなく和平派の楠木正儀が北朝に降ったため、同年(1368年)12月吉野(奈良県吉野町)に後退し、正平24年/応安2年(1369年)4月には河内天野の金剛寺(大阪府河内長野市)に移った。 |
| しかし、文中2年/応安6年(1373年)8月に正儀らの先導で細川氏春・赤松光範の軍から総攻撃を受けて、四条隆俊等70人余りが討ち取られたため、再び吉野へ還幸することとなった『花営三代記』応安6年(1373年)8月2日条には、「南方」(長慶天皇)が「御舎弟宮」(熙成親王)に譲位して吉野に落ち延びたとの風聞を載せている。 |
| 江戸時代に在位説を主張した諸家の間では、この記事を根拠として文中2年(1373年)譲位説を採る者が多かったが、八代国治は実証学的研究の立場からこれを退けた。 |
| 文中3年/応安7年(1374年)冬、叔父の宗良親王が信濃から吉野入りし、以降は歌合が盛んに催されている。 |
| 天授5年/康暦元年(1379年)9月までには大和栄山寺(奈良県五條市)に移り、弘和元年/永徳元年(1381年)10月に宗良親王の私撰和歌集を準勅撰集とした(『新葉和歌集』)。 |
| また同年、『源氏物語』の注釈書である『仙源抄』を著している。 |
| 譲位の時期は判然としないが、朝要分に関して利生護国寺に下した弘和3年(1383年)10月27日付の綸旨が在位を確認できる最後の史料と目され同趣旨の文書が翌年(1384年)閏9月8日付で院宣として下されており、遅くともこれより前に譲位が行われたことは確実である。 |
| また、年次不詳3月14日付で河合寺に下した綸旨には「代始」の文言があり、これを同年のものと見ることが出来れば、さらに以前となる。 |
| 以上2通は無年号文書であるが、この年には弘和から元中への改元があった。 |
| 改元は譲位の翌年に実施するのが通例であるから、この場合は弘和3年(1383年)の冬(10月から12月の間)に譲位が行われたものと推測されている。 |
| さらに、村田正志は独自の鑑識眼に基づき、『阿蘇文書』弘和3年11月4日付綸旨を長慶のもの、『観心寺文書』同年12月9日付綸旨を後亀山のものと判断した上で、譲位の時期がこの両日間に絞られると主張している(『日本歴史全集第8巻南北朝と室町』講談社、1969年)、この後間もなく弟の東宮(後亀山天皇)に譲位したと考えられている。 |
| 譲位に至った背景には、前年(1382年)閏正月に正儀が再び南朝に帰参したことを受けて和平派が台頭し、その勢力によって後亀山天皇を擁立する動きがあったものとみられる。 |
| 譲位後しばらく院政を敷いた形跡があり、元中2年/至徳2年(1385年)9月「太上天皇寛成」の名で高野山丹生社に宸筆願文を納めたがこの願文中に見える「今度雌雄」の文言は、弟・後亀山天皇との確執を示したものとも、北朝や室町幕府との対立を指したものとも言われている。 |
| 、翌元中3年/至徳3年(1386年)4月に二見越後守宛に下した院宣を最後に史料の上から姿を消している。 |
| その後は落飾して金剛理(覚理とも)と号し、禅宗に帰依した模様であり、元中9年/明徳3年(1392年)閏10月に成った南北朝合一の際にも後亀山天皇に同行して京に入った形跡は見られない。 |
| 『大乗院日記目録』によれば、応永元年(1394年)8月1日に崩御。 |
| 晩年の地については、吉野に留まったとする説の他、紀伊玉川里(和歌山県九度山町)とする説、和泉大雄寺塔頭の長慶院(大阪府高石市)とする説(後述)、あるいは京に入ったとみて、天竜寺塔頭の慶寿院(京都市右京区)とする説など諸説がある。 |
| 若年より和歌に優れ、天授元年(1375年)の『五百番歌合』、同2年(1376年)の『千首和歌』(322首が現存)がある他、『新葉和歌集』に「御製」として53首が入集している。 |
| その歌風は大覚寺統伝統の二条派に属する。 |
| 著作には先述の『仙源抄』があり、『孟子集註』・『雲州往来』・『台記』の研究も行った。 |
| なお、天皇は譲位後に全国の南朝勢の協力を求めて、各地を潜幸したという伝説があり、全国にその陵とされる場所が点在する。 |
| 南部煎餅の祖とする伝承もある。 |