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つながりの強いひと
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岡野俊一郎
日本の元サッカー選手・サッカー指導者。日本サッカー協会の元会長であり、現在は最高顧問である。実家は和菓子の老舗「岡埜栄泉」。 |
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プロフィール
- 長沼健とは
- 若年時代
- 学生時代
- 古河電工へ
- 日本代表監督就任
- 日本サッカーの改革者として
- Jリーグ創設への舵取り
- 長沼路線の功罪
- 晩年
- 関連サイト
長沼健(ながぬまけん、1930年9月5日-2008年6月2日)は広島県広島市中区袋町出身の元サッカー選手・日本代表選手、 元日本代表監督である。1994年より日本サッカー協会会長を4年勤め、その後同協会最高顧問のほか日本フットサル連盟名誉会長、日本ハンディキャップサッカー連盟会長、 日本体育協会副会長、埼玉スタジアム2002場長、NPO法人日本知的障害者サッカー支援機構顧問を務めた。
若年時代
| W杯の第1回大会が開催された1930年の生まれ。 |
| 実家は広島の老舗電気工事業・長沼電業社。 |
| 父親、実兄もサッカー選手で小学校時から自然にサッカーを始めた『時代の証言者・「サッカー」長沼健』 |
| 1945年夏、原爆投下の日には広島市内中心部にあった学校での防空当番が前夜にあり当日6時までいて、その後8キロ西北の疎開先、現在広島ビッグアーチがある付近・沼田(現・安佐南区沼田)まで自転車で帰る途中、家に着く直前被爆した。 |
| 30分帰りが遅かったら直下だった。 |
| 1週間後市内に入り地獄絵を見る。 |
| 多くの知人・級友を亡くし、自らも亡くなるまで白血球過多で苦しんでいた。 |
| その為、被爆者手帳を持っていた。 |
学生時代
| 終戦後、焼け野原となった町でグラウンドの整地、食糧調達、器材の作製などを自分達で行い、1個だけのボールを縫いながらサッカーに打ち込みボールを追った。 |
| 戦争で中断されていた全国中等学校選手権(現・全国高等学校サッカー選手権大会)が1947年に復活。 |
| 長沼は旧制広島高等師範学校附属中学(現・広島大学附属高校)のエースFWとしてチームを優勝に導いた。 |
| チームは相手の虚を突くパスワークに抜群の冴えを見せ、ボールを両足で自由に蹴れるのはこのチームだけだったと言われている |
| 特にFWの3人、のち“アジアの黒豹”と謳われた木村現、樽谷明、長沼の速攻は当時の学生レベルでは止められなかった『雲を抜けて、太陽へ!』岡野俊一郎、東京新聞出版部、2009年、p39、40当時のサッカーはFWが5人のチームが多かったので、木村、樽谷、長沼はFWの右側の3人となる。 |
| 4試合で21得点を叩き出し決勝戦7-1のスコアは、戦後最多得点、及び大会最多得点差記録として現在も残る。 |
| 同チームの右ハーフバック(HB)だったのがヤンマーディーゼルサッカー部(現・セレッソ大阪)創設者・古川能章。 |
| この大会の初戦で、のち長らく盟友となる東京都立五中学(現・都立小石川高校)の岡野俊一郎と対戦している |
| 翌1948年、国体でも優勝。 |
| 1949年、長沼ら新制広島高等師範学校附属高校のメンバー8人が卒業後関西学院大学入りし1950~1952年、関西学生リーグ3連覇、1950年大学王座、関学の黄金時代を築いた『11人の中の1人』長沼健、生産性出版、1975年、2008年増補、p186『広島スポーツ史』広島県体育協会、1984年、p314。 |
| 1950年は、長沼ら現役大学生メンバーと鴇田正憲らOBを加えた全関学が全日本サッカー選手権大会(天皇杯の前身)で慶應義塾大学を6-1で降して優勝。 |
| 1953年、関西学院大学を卒業するとさらに大学でサッカーを続けるため、関東学生リーグで前年2位であった中央大学の3年(学部は当時の工学部)に編入。 |
| 4年次には主将を務め100人の部員を統率し、全日本大学サッカー選手権大会2年連続準優勝に導いた。 |
| 中央大学時代の1953年には西ドイツ・ドルトムントで開催された第3回国際学生週間(ユニバーシアードの前身)に初めて日本学生代表として岡野、平木隆三ら17名と参加、約2ヶ月にわたってヨーロッパを転戦した |
| これは竹腰重丸技術委員長の提唱で、日本サッカーの復興のため若い人の視野を広げて将来に役立ててもらおうと企図されたもので試合、ホームステイの他、オペラ、美術館などを見てまわった |
| しかし当時の蹴球協会には金はなく参加費用は自腹(個人負担+出身校や都道府県協会の募金)だった |
| この頃ドイツの街もまだ戦禍が生々しかったが、あちこちに見事な芝があった |
| 日本には神戸と横浜の外国人クラブにしか芝のグラウンドは無かった。 |
| 1954年には、日本が初めてワールドカップ予選に参加した第5回W杯スイス大会の日本代表(当時の名称は全日本)に選出される。 |
| その初戦となった極東地区予選の3月7日、雪の神宮競技場(現・国立競技場)の対韓国戦で記念すべきW杯予選における日本代表の第1号ゴールを決める |
| この試合は日韓宿命の対決、サッカー日韓戦の第1戦、第1号ゴールでもあった『日韓キックオフ伝説』p263-282。 |
| この頃日本サッカーの目標はオリンピックであり、長沼はワールドカップとは何かよく分からずやっていたと言う。 |
| この頃の日本サッカーはそのような時代であった。 |
古河電工へ
| 中央大学卒業後の1955年、実家の事業と付き合いがあった縁故もあり、当時関東実業団リーグ2部に転落していた古河電工(現ジェフユナイテッド市原・千葉)へ入団『古河電工サッカー部史』古河電工サッカー部史刊行委員会、2004年、p45-50。 |
| 当時の古河電工サッカー部は、創部10年を経てはいたものの、アイスホッケーの選手も混じる同好会レベルのチーム『古河電工サッカー部史』、p35-45『サッカーの物語』田中孝一kkベストセラーズ、2001年、p67-72。 |
| 本格的なサッカー選手は長沼ら数人だけだった。 |
| この頃、社会人スポーツはまだ熱気がなく「スポーツは学生まで」という考えが日本では主流だった。 |
| 古河は他の企業よりもスポーツに関して理解が深く、「社員の志気を高めるために」と社長が号令をかけて、バレーボール部とサッカー部に力を入れることになり、サッカー部の強化を一任されたのが長沼だった。 |
| 社業が第一、毎日5時まで仕事をして練習となるが、自前のグラウンドはなく、ボールは蹴らず、皇居の周りを何周も走るだけ。 |
| 二重橋前の手入れの行き届いた芝生公園を見ながら「あそこで蹴れたら気持ちがいいだろうな」と思いながら走った。 |
| ボールを蹴るのは週末のみ、毎回違う郊外のグラウンドを借りてボールを蹴った。 |
| ここでもエースフォワードとして活躍し、すぐに関東実業団リーグ2部優勝、1部昇格に導く。 |
| 「長沼を中心に何か始めるらしい」と知った平木隆三は1957年、湯浅電池を円満退社して古河電工へ移ったほどであった『11人の中の1人』長沼健、生産性出版、p190。 |
| 1956年、メルボルンオリンピック日本代表に選ばれたものの下痢を発症し隔離病棟に拘束され、その間にチームは1試合で敗退した。 |
| 1958年、東京アジア大会日本代表。 |
| 1959年、28歳の若さで古河電工のプレイングマネージャーとなり同年実業団、都市対抗の2冠に輝いた。 |
| 翌1960年、古河電工を実業団チームとして初めて天皇杯を制覇、日本一に導く『古河電工サッカー部史』、p139。 |
| それまでの学生サッカーの時代から、社会人サッカーの時代の始まりだった。 |
| 更に翌1961年は史上初の3冠(全日本(天皇杯)、実業団、都市対抗)を達成しこの年新設された、第1回日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞した。 |
| 人柄の良さから長沼のまわりには自然と人が集まってきたといわれ、長沼が関学、中大、古河電工と移るとともに日本サッカー界の勢力地図が塗り替えられていき、古河を強豪にしたことによって八重樫茂生、宮本征勝、川淵三郎、木之本興三、清雲栄純、岡田武史らのちの重要人物が古河入りすることになった『古河電工サッカー部史』、p45-50、115『11人の中の1人』長沼健、生産性出版、p189-191。 |
| 彼らは「長沼一家」と呼ばれた。 |
| 『古河電工サッカー部史』は、「長沼が古河に入社してなかったら、歴史は変わっていただろう」と書いている『古河電工サッカー部史』、p45。 |
| この頃古河のプレイングマネージャーだった長沼は日本代表入りを辞退し続けたといわれ、代表出場試合数は多くはない。 |
| 1960年に来日したデットマール・クラマーが長沼の指導者としての能力に目を付け、強引に代表試合に出場させたといわれている1961年11月28日。 |
| 対ユーゴスラビア代表) |
日本代表監督就任
| 1962年、この頃サッカーはまったく人気が無く、日本代表(当時の名称は全日本)の監督といえば、ある程度の年配者が当たり前だったが、同郷で当時日本サッカー協会会長だった野津謙が大英断を下し、まだ現役選手でありながら33歳で日本代表監督(コーチ・岡野俊一郎(32歳))に抜擢される『雲を抜けて、太陽へ!』p91。 |
| これは日本サッカー近代化のスタートだった今井恭司『写蹴』、スキージャーナル、2010年、p53、204、205。 |
| この後もクラマーの技術指導を請け、日本代表監督として1964年、東京オリンピックの対アルゼンチン戦での勝利は日本に空前のサッカーブームを起こし1968年、メキシコオリンピックでも銅メダル獲得の偉業を達成した。 |
| またクラマーの提案を受け1965年から発足した日本サッカーリーグ(JSL)の創設にも岡野、西村章一、重松良典らと尽力『古河電工サッカー部史』、p76。 |
| 139『サッカーの物語』、p160、161『月刊グラン』2003年10月号、p36。 |
| アイスホッケー、バスケットボール、バレーボールの全国リーグが翌年から追随した。 |
| JSL創成期の苦労は現在とは比べ物にならない程過酷なもので、広島などへの遠隔地への試合では「われわれには夜行列車があります」と社業に差し支えると渋る会社と交渉。 |
| 週末に移動し日曜に試合をこなし、夜行で帰り月曜の朝、東京駅に着くとそのまま丸の内の会社に出社し仕事をした。 |
| 1966年、日本代表を連れヨーロッパ遠征中、せっかくだから選手にワールドカップを見せてやろうとドーバーのインド人が経営する安宿に泊まり、ワールドカップイングランド大会を自身も初観戦 |
| またドイツ遠征中、アディダス社のアディ・ダスラー(アドルフ・ダスラー)に代表選手のシューズを作ってもらう。 |
| これが現在、麒麟麦酒(キリンビール)・キリンビバレッジと両輪で日本代表を支える有力スポンサー・アディダスと協会との長きに亘る付き合いの始まりであった。 |
| また、長沼は後年キリンビールのスポンサー獲得も実現させている『サッカー批評』37号、2008年1月、双葉社、p34-35。 |
| 天皇杯の決勝戦が元日国立競技場開催になったのは、明治神宮に250万人の参拝客が来るので、初詣帰りの1%でも来てもらえないか、と思案して変更したものという『サッカーの物語』、18、57頁。 |
| 1970年、野津のお供でワールドカップメキシコ大会を視察。 |
| この時はロイヤルボックスで観戦し、当時の国際サッカー連盟(FIFA)会長・スタンリー・ラウスからワールドカップ日本招致の話を初めて聞く。 |
| 1974年、同理事となり協会の法人化(財団法人日本サッカー協会に名称変更)にも奔走。 |
日本サッカーの改革者として
| 代表監督を退任したこの年、医者の野津謙サッカー協会会長では将来が望めないと岡野・重松らと野津会長=小野卓爾専務理事体制の刷新を画策『サッカー批評』20号、p50-57、双葉社、2003年9月 |
| 小倉が「国際派」となるのは、1981年に古河電工のロンドン支店に転勤になった小倉に長沼が「日本サッカー協会国際委員(在ロンドン)」と書かれた名刺を持たせてから |
| 付随して日本のスポーツでは初めて、天皇杯を日本のすべての加盟チームに門戸を開いた『月刊グラン』2003年10月号、p37日本経済新聞夕刊、2008年6月27日5面。 |
| 1977年に結成した「日本サッカー後援会」の会費と個人登録制度、国際試合の興行収入、日本体育協会からの補助金と合わせ財政基盤確立をもたらした。 |
| 同年、全国で組織的に選手を発掘し育成するナショナル・トレーニング・センター制度を発足『進化する日本サッカー』忠鉢信一、集英社、2001年、56-59頁。 |
| この年電通から持ち込まれたペレの引退試合を国立競技場で開催電通が初めて手掛けたサッカーの興行(『サッカーマガジン』2008年5月20日号、ベースボール・マガジン社、53-61頁)、観衆6万5000人を集め、国立競技場が初めて満員になったといわれ、7000万円の純益を出した『サッカーの物語』田中孝一、18頁。 |
| 協会が手掛けた初めての大きな興行で個人登録制度導入と合わせ以降、日本サッカー協会は赤字体質から脱却した『サッカー批評』20号、p50-57、双葉社『月刊グラン』2003年10月号、p37『日本は、サッカーの国になれたか。 |
| 1978年から始めて当初赤字を出したジャパンカップのスポンサー探しに、キリンビール社員で審判員だった久保田秀一に案件を依頼。 |
| 久保田の尽力で長沼は岡野と共に代理店なしで当時の同社・小西秀次社長に直談判し冠スポンサーを実現させ、同大会は1980年第3回大会からキリンカップサッカーと名称変更となった『サッカー批評』37号、2008年1月、p34-35、38号、p36-42『日本は、サッカーの国になれたか。 |
| 1977年、セルジオ越後らの提言を受け日本ミニサッカー連盟(現在の日本フットサル連盟)発足『フットサル公式ファンガイド』日本文化出版、1995年、p100。 |
| 1981年に日本代表監督に就任した森孝慈の要請に応え、それまで勝利給はおろか日当さえも出なかった代表チームの報酬金1982年から1日3千円の手当て、1983年からは出場した場合あるいは勝利した場合にボーナスや宿泊ホテルを改善『週刊サッカーマガジン』2008年12月16日号、p56-57『サッカー批評』40号、p38-42、双葉社。 |
| これは1983年から韓国Kリーグが始まり、韓国代表選手に金銭的手当てが出るようになった影響がある後藤健生『日本サッカー史日本代表の90年』(双葉社、2007年)ISBN978-4-575-29932-8。 |
Jリーグ創設への舵取り
| 同年、エリザベス女王が名誉総裁を務めるイングランドサッカー協会に倣い、高円宮憲仁親王を名誉総裁に迎える。 |
| 森健兒、石井義信、木之本興三らとのち川淵が中心となって進めたプロ化推進では難色を示す長老が多くこのままでは頓挫してしまうと判断、長沼は協会内にプロ化検討委員会の設置を提案し自ら委員長毎日新聞、2008年6月3日15面(プロリーグ対策本部長『清水エスパルスーJリーグへの挑戦』田中孝一、大栄教育システム出版、1993年、p93)に就任、プロ化反対派に対する防波堤となり川淵らを強力にバックアップしJリーグを実現させた |
| その後ハンス・オフト、パウロ・ロベルト・ファルカンの招聘、そして1998年フランスW杯予選途中での加茂周監督更迭 |
| スポーツニッポン、2008年6月3日7面、ジョホールバルの歓喜・日本サッカー悲願のW杯初出場をもたらした。 |
| また2002年日韓W杯招致では、世界30ヶ国、延べ75万キロ、地球19周を飛び回り開催を実現させた |
| 長沼の人生は日本サッカーの苦悩と葛藤のクロニクルそのものであったスポーツニッポン、2008年6月3日6面日本経済新聞、2008年6月3日37面讀賣新聞、2008年6月4日2面。 |
長沼路線の功罪
| これら一連の出来事により、1997年から1998年にかけ、長沼はとくに若年のジャーナリストと彼らを支持するファンからの厳しい批判にさらされ、競技場で大きなブーイングを浴びる事もあった |
晩年
| その後も日本体育協会副会長、日本スポーツ少年団本部長、日本フットサル連盟会長、埼玉スタジアム2002の場長などを務め、晩年は知的障害者サッカーの普及などに奔走した |
| 日本政府は、多年に亙る長沼の日本スポーツ界並びにサッカー界への功労を評価し、2008年7月1日の閣議で長沼に死後叙位(正五位/叙位日付は死去日の6月2日付)を親授することを決めた。 |
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