| 深造は日本初の免許代言人(弁護士)の一人で、東京市会の有力者でもあった。 |
| 多喜は御家人の娘であった。 |
| 5歳から12歳まで、秋山源泉小学校で寺子屋教育を受け、かたわら、唄・踊り・お花・お茶など当時の女子の躾けを受け、祖母には芝居へ連れられた。 |
| 女に学問は不要という母に隠れて本を読み、14歳から行儀見習いに奉公した池田侯爵家でも、夜分は読書に耽った。 |
| 17歳のとき肋膜炎を病んで家に戻り、佐佐木信綱の竹柏園に通って古典を学んだ。 |
| 1897年(明治30年)(18歳)、父の命で鉄成金の息子と結婚させられたが、遊び人で釜石鉱山に追われ、それに嫌々従った3年間、勉強し習作し、1901年、短編『うづみ火』が『女学世界』誌の特賞に選ばれた。 |
| そのときは『水橋康子』を筆名とした。 |
| のち、『しぐれ女』、『長谷川康子』、『奈々子』なども使った。 |
| 1904年(25歳)、帰京し、引責辞職していた深造と佃島の屋敷に住んだ(離婚は3年後)。 |
| 多喜は箱根で旅館を営んでいた。 |
| 築地の女子語学校(現、雙葉学園)の初等科に2年通った。 |
| 岡田八千代と知り合った。 |
| 1905年(明治38年)、読売新聞の懸賞に応募した戯曲『海潮音』が、坪内逍遙に認められて入選し、逍遙に師事した。 |
| そして次々と新作を発表して人気作者になった。 |
| 釜石時代から文通した中谷徳太郎との仲が深くなり、1912年の第1次『シバヰ』誌にともに寄稿し、さらに翌年の第2次『シバヰ』5冊を中谷と発行したが早稲田大学図書館編:『シバヰ』、雄松堂出版マイクロフィッシュ版精選近代文芸雑誌集103(2002年)、喧嘩別れした。 |
| 1912年には六代目尾上菊五郎らと『舞踊協会』を作って8回公演し、次いで翌年、『狂言座』を菊五郎と結成したが、公演2回で挫折した。 |
| たまたま、甥の育児・事業に躓いた母の面倒見・父の看病・鶴見への引っ越しなどに多用で、劇評は続けたものの、演劇界からは退いた。 |
| 菊五郎とは生涯の親友であった。 |
| 文学の面では、既に1911年『日本美人伝』を、翌年『臙脂伝』を刊行していた。 |
| 劇作および文学面の業績は、主な劇作と主な著作の項に纏める。 |
| 1916年(大正5年)(37歳)、無名だった三上於菟吉を知り、押し掛けられるように1919年から内縁関係の世帯を持ち、以降は12歳年上の姉さん女房として、三上を世に出すことに努めた。 |
| 1921年頃から三上は売り出して放蕩し、時雨を悩ませた。 |
| 父没後の母らの世話に忙しい時期でもあった。 |
| 1923年(大正12年)、岡田八千代との同人雑誌、『女人芸術』を出したが、関東大震災のため、2号で終わった。 |
| 1928年(昭和3年)(49歳)、女性作家の発掘・育成と女性の地位向上のため、商業雑誌『女人芸術』を創刊した。 |
| 時雨に大人気作家へ押し上げられて女遊びを続ける三上が、費用を負担した。 |
| 世相のなかで左傾し、たびたび発禁処分を受け、資金に詰まり、1932年の48号目までで廃刊した。 |
| 『旧聞日本橋』は、同誌に連載された。 |
| 1933年(54歳)、『女人芸術』の仲間に励まされ、『輝ク会』を結成して、機関紙『輝ク』を発刊した。 |
| 今度は、タブロイド判二つ折り4ページの、月刊の小型新聞で、発行・編集人は時雨、発行所は赤坂桧町の自宅、会員の会費で足らぬ分は時雨が自腹でまかなった。 |
| 『女人芸術』の執筆者、新顔、男性陣を含む大勢が狭い紙面を充実させた。 |
| 年齢順で、長谷川時雨、岡田八千代、田村俊子、柳原白蓮、平塚らいてう、長谷川かな女、深尾須磨子、岡本かの子、鷹野つぎ、高群逸枝、八木秋子、坂西志保、板垣直子、中村汀女、大谷藤子、森茉莉、林芙美子、窪川稲子、平林たい子、円地文子、田中千代、大石千代子/三上於菟吉、直木三十五、獅子文六、葉山嘉樹、大佛次郎……など。 |
| 会員からの投稿も多かった。 |
| 『女人芸術』誌の後期の左傾を精算したような、編集だった。 |
| 会員仲間でピクニックや観劇もした。 |
| 1936年(昭和11年)、三上於菟吉が脳血栓で倒れ、看病し、彼の新聞連載を代筆した。 |
| そして翌年、関東軍が支那事変を始め、『輝ク』は『戦争応援』の方向へ旋回した。 |
| 江戸っ子の時雨は弱者の味方、嘗て『女人芸術』の読者だった貧しい農村の妻たちは、夫を戦場に取られ、その代役に苦闘していた。 |
| 1937年10月の『輝ク』は『皇軍慰問号』であった。 |
| 旋回に会員間の摩擦が起こり、1938年には2度休刊したが、時雨は進んだ。 |
| 1939年(60歳)、女性の銃後運動を統率する『輝ク部隊』を結成し、慰問袋を募って送り、戦死者の遺族や戦傷者を見舞い、占領地や戦地に慰問団を派遣した。 |
| 当時の著名婦人を網羅したような112人の評議員のなかには、嘗ての左翼活動家たちもいた。 |
| 最低、靡いた振りをせねば、生き延びられぬ時代であった。 |
| 1940年、陸海軍の資金により、文芸誌『輝ク部隊』および『海の銃後』を編んで、紀元二千六百年の前線へのお年玉とし、1941年1月にも『海の勇士慰問文集』を送った。 |
| 『女人芸術』誌以来の本格的な雑誌であった。 |
| その1月から、『輝ク部隊』の『南支方面慰問団』の団長として、台湾・広東・海南島などを約1ヶ月強行軍した。 |
| その後も忙しくして、発病し、白血球顆粒細胞減少症のため8月22日早暁、慶應病院で没した。 |
| 24日芝青松寺で営まれた『輝ク部隊葬』には、600人が焼香した。 |
| 『輝ク』は追悼号を出してのち、11月の103号で終わった。 |
| 墓は今、鶴見の総持寺にある。 |