38235
38543
435960
%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E6%98%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B
%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E6%98%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B
%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E6%98%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B
%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E6%98%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B
%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E6%98%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう 閑院宮春仁王の画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
閑院宮載仁親王
閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう、慶応元年9月22日(1865年11月10日)-1945年(昭和20年)5月20日)は日本の皇族、陸軍軍人。伏見宮邦家親王... |
|
|
賀陽宮恒憲王
賀陽宮恒憲王(かやのみやつねのりおう、1900年(明治33年)1月27日-1978年(昭和53年)1月3日)は日本の元皇族、陸軍軍人である。神宮祭主賀陽宮邦憲王第1王... |
|
|
朝香宮鳩彦王
朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこおう、1887年(明治20年)10月20日-1981年(昭和56年)4月12日)は日本の皇族、軍人。朝香宮家の初代当主。1947年(昭和2... |
|
|
竹田宮恒徳王
竹田宮恒徳王(たけだのみやつねよしおう、1909年(明治42年)3月4日-1992年(平成4年)5月11日)は日本の皇族(竹田宮第2代)、陸軍軍人。陸軍少将竹田宮恒... |
|
|
華族
1869年から1947年まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家に由来する華族を公家華族、江戸時代の藩主に由来する華族を大名華族(諸侯華族)、国家... |
|
|
辻政信
日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大佐。衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)などを歴任した。 |
|
|
北白川宮永久王
日本の皇族。陸軍将校。貴族院議員。陸軍大将北白川宮能久親王の王子北白川宮成久王の第1王子。階級は陸軍少佐(薨後特進)。勲等は勲一等旭日桐花大綬章、大... |
|
|
久邇宮邦彦王
久邇宮邦彦王(くにのみやくによしおう、1873年(明治6年)7月23日-1929年(昭和4年)1月27日)は日本の皇族で陸軍軍人。久邇宮朝彦親王の第三王子。階級及び... |
|
|
梨本宮守正王
皇族、軍人。1904年(明治37年)に大勲位菊花大綬章を受章している。 |
|
|
東久邇宮稔彦王
日本の旧皇族、陸軍軍人。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は大勲位。功級は功一級。皇籍離脱後は東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)を名乗った。貴族院議... |
|
|
秩父宮雍仁親王
日本の皇族。大正天皇と貞明皇后(同日の誕生日であった)の第二皇子。今上天皇の叔父にあたる。妃は勢津子(旧会津藩主・松平容保の四男で外交官を務めた松... |
|
|
一条実輝
日本の華族、海軍軍人。海軍大佐・正二位・公爵に上り、東宮侍従長を務める。陸軍中将・侯爵の四条隆謌七男。一条家は藤原北家、九条道家の三男実経を始祖と... |
|
|
竹田宮恒久王
竹田宮恒久王(たけだのみやつねひさおう、1882年(明治15年)9月22日-1919年(大正8年)4月23日)は日本の皇族・陸軍軍人。北白川宮能久親王第1王子。妃は明... |
|
|
北白川宮能久親王
幕末・明治時代の皇族、陸軍軍人。伏見宮邦家親王の第9王子。生母は堀内信子。幼名は満宮(みつのみや)。最後の輪王寺宮(りんのうじのみや)として知られる。 |
|
|
小松宮彰仁親王
旧久留米藩主有馬頼咸の長女頼子で、頼子妃の母(嫡母)は有栖川宮韶仁親王王女、有馬韶子。 |
|
|
北白川宮成久王
北白川宮成久王(きたしらかわのみやなるひさおう、1887年(明治20年)4月18日-1923年(大正12年)4月1日)は日本の皇族である。階級は陸軍大佐。北白川宮能... |
|
|
クリフォード・D・シマック
アメリカ合衆国のSF作家、ファンタジー作家。ヒューゴー賞を3度、ネビュラ賞を1度受賞し、1977年にはアメリカSFファンタジー作家協会(SFWA)から3人目のグラン... |
|
|
伏見宮貞愛親王
日本の皇族、陸軍軍人。伏見宮邦家親王第14王子、母は鷹司政熙の女鷹司景子。伏見宮第22代および第24代。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級内大臣。 |
|
|
川勝傳
昭和初期から末期(1930年代~1980年代)の日本の経済人・経営者。 |
|
|
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(FriedrichWilhelmIII.,1770年8月3日-1840年6月7日)はプロイセン王(在位:1797年11月16日-1840年6月7日)。家庭においては... |
|
|
プロフィール
- 閑院宮春仁王とは
- 戦前
- 皇籍離脱後
- 血縁
- 著書・参考文献
- 関連サイト
閑院宮春仁王(かんいんのみやはるひとおう、1902年(明治35年)8月3日-1988年(昭和63年)6月18日)は、日本の皇族、陸軍軍人で、階級は大勲位陸軍少将に昇る。 閑院宮載仁親王の第2王子。兄宮の篤仁王が生後すぐに薨去したため、実質長男として育ち、父載仁 親王薨去にともない閑院宮を継承した。戦後は皇籍を離脱し、姓を閑院とし閑院春仁と名乗った。のちに純仁と改名した。
戦前
| 学習院初等科を健康上の理由で長期休学し、その後神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)を経て、1924年(大正13年)7月陸軍士官学校(36期)を卒業し、同年10月には陸軍騎兵少尉に任命、近衛騎兵連隊に配属される。 |
| 北支那方面軍参謀、陸軍大学校教官を経て1941年(昭和16年)4月新設の総力戦研究所の聴講生となる。 |
| 1942年(昭和17年)戦車第5連隊長に補職。 |
| 将校の進級は実役停年(定められた年数を経て、実績を上げることで、次の階級に進む)という規定によって行われるので、一般将校は通例規定年数以上の年月をかけて進級していくが、皇族は規定年数通りの最小期間で進級する。 |
| そのため、春仁王は1945年(昭和20年)6月に同期将校の中で歿後進級の例を除きただ一人普通進級で少将まで進んだ(歿後進級では3名の例がある)。 |
| 同年8月には戦車第4師団の師団長心得。 |
| この師団は九十九里浜を重点に千葉県内に配備されており、3個連隊約6,000名の大所帯であった。 |
| 実際の指揮は隷下戦車連隊長の島田一雄大佐がとったとされるが、敵軍の上陸に備え九十九里浜・鹿島灘・相模灘等で準備中に終戦を迎える。 |
| 終戦にあたり、大詔換発の聖旨並びに停戦大命の徹底を期し、天皇の名代として南方(サイゴン)に派遣される。 |
皇籍離脱後
| 1945年(昭和20年)11月11日、東久邇宮稔彦王は敗戦の責任を取るため、皇族の身分を離れる意向であることを表明した。 |
| 賀陽宮恒憲王もこれに同調し、また、当時朝日新聞は皇族の範囲を狭めることによって『累の上御一人に及ぶことを全力を挙げて未然に避けん』とする等、世論も歓迎する方向であったが、春仁王が「皇族の使命を軽んじ自ら卑下して時勢におもねるもの」と発言する等、このような動きに反発する皇族も多く、時の宮内大臣石渡荘太郎も臣籍降下の勅許は得られないであろうとの見解を示した。 |
| この問題は宮相発言によりいったん決着を見たかのようであったが、翌月には梨本宮守正王が戦犯に指名される等、天皇・皇族も戦争責任も免れないことが明示された。 |
| さらに、1946年(昭和21年)5月23日、GHQより『皇族の財産上その他の特権廃止に関する指令』が発せられ、財政上、従前の規模の皇室を維持することは困難となった。 |
| 昭和天皇は「諸般の事情から真に遺憾であるが臣籍降下も止むを得ない」と述べて皇族たちを説得し、皇族会議を経た後正式に11宮家51名の臣籍降下が決定された。 |
| 1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱、閑院春仁と名乗る。 |
| 永田町の本邸跡地を売却した後、東京を離れ、かつての小田原別邸に移住する。 |
| のち、直子妃と離婚して純仁と改名する。 |
| その後、直子がマスコミに純仁は同性愛者(男色家)であったと語り、一時スキャンダルに見舞われた。 |
| 上級将校には世話係として従兵がつく。 |
| 純仁も同様であった。 |
| 官舎はせまく寝室は一部屋だったため直子の隣のベッドで純仁はその従兵と同衾した。 |
| 戦後は、純仁は当然のように三人で生活を送り、夫妻が喧嘩になるとその元従兵が直子を殴ったという。 |
| その後、春日興業を設立して社長に就任し、東海道本線田町駅前に春日ビル(現NEC春日ビル)を建設するなど、旧皇族の中では比較的経済的に成功したひとりであった。 |
| 晩年はヨガに傾倒し、また地方の農業の改革を訴える活動を行っていた農民運動家に協力するなどしていたが、概ね静かな余生を送った。 |
| 1988年(昭和63年)6月に死去する。 |
血縁
| 閑院宮載仁親王の第2王子で母は公爵三条実美の娘智恵子。 |
| 陸軍中将侯爵四条隆謌の孫で明治神宮宮司・海軍大佐・公爵一条実輝の娘、直子を妃とするが、後、離婚。 |
| また、直子の姉朝子は伏見宮博義王に嫁いでいる。 |
| 東山天皇皇子典仁親王を初代とし享保3年(1718年)から続く閑院宮第7代となるが、子は無く閑院宮家は断絶した。 |
| 父母:閑院宮載仁親王-妃智恵子。 |
| 兄弟:篤仁王-恭子女王-茂子女王-季子女王-春仁王-寛子女王-華子女王。 |
| 妻:一条直子(離婚)。 |
著書・参考文献
| 『私の自叙伝』、閑院純仁、人物往来社、1966年(昭和41年)。 |
| 『日本史上の秘録』、閑院純仁、日本民主協会、1967年(昭和42年)。 |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
閑院宮春仁王さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|