| この作業に加わった間宮は幕臣・下条吉之助に地理や算術の才能を見込まれ、後に幕府の下役人となった。 |
| 寛政11年(1799年)、南千島に派遣され同地に来ていた伊能忠敬に測量技術を学び享和3年(1803年)、西蝦夷地を測量した。 |
| 文化3年(1806年)、択捉島の紗那会所元に勤務していた際、幕府から通商の要求を断られたニコライ・レザノフが復讐のため部下たちに行わせた同島襲撃に巻き込まれた。 |
| 文化4年(1807年)4月下旬、フォボストフ襲撃事件に遭遇。 |
| 文化5年(1808年)、幕府の命により松田伝十郎に従って樺太を探索。 |
| 間宮はアイヌ語もかなり解したが、樺太北部にはアイヌ語が通じないオロッコと呼ばれる民族がいることを発見、その生活の様子を記録に残した。 |
| 文化6年(1809年)、樺太が島であることを確認した松田が帰ったあと、鎖国を破ることは死罪に相当することを知りながらも、樺太人から聞いた、何らかの役所が存在するという町「デレン」の存在、およびロシア帝国の動向を確認すべく、樺太人らと共に海峡を渡って黒竜江下流を調査した。 |
| その記録は『東韃地方紀行』として残されており、ロシア帝国が極東地域を必ずしも十分に支配しておらず、清国人が多くいる状況が報告されている。 |
| 間宮は樺太が島であることを確認した人物として認められ、シーボルトは後に作成した日本地図で樺太・大陸間の海峡最狭部を「マミアノセト」と命名した。 |
| 海峡自体は「タタール海峡」と記載している。 |
| のち文化8年(1811年)、ゴローニン事件の発生に遭遇。 |
| 文政11年(1828年)には勘定奉行・遠山景晋の部下になり、幕府の隠密として全国各地を調査する活動を行う。 |
| これを探検家が隠密に転身したかのように解釈する向きがあるがそもそも樺太探検自体が対ロシア・対清国の隠密行動であり、単に隠密としての諜報活動の場が変わったに過ぎない。 |
| 石州浜田藩の密貿易の実態を掴み、大坂町奉行矢部定謙に報告し検挙に至らせる(竹島事件)。 |
| 変装の名人であり、アイヌ民や乞食など様々な変装をこなしている。 |
| 浜田藩の密貿易調査の際も、商人に変装して回船問屋・会津屋への潜入に成功している。 |
| ちなみに後に間宮は「乞食に変装した時は、(着衣がボロボロなので)預かった資金を懐中に隠すのに苦労した」と述懐している。 |
| また、シーボルト事件を幕府に密告したとされている。 |
| 天文方・高橋景保は間宮にとって大師匠にあたる高橋至時の息子であり、儒教道徳においては許し難い行動でありさすがは冷酷な隠密であるという非難がなされた。 |
| 当時、外国人との交通は届出しなければならず景保はこれを破ってシーボルトとやりとりしており、シーボルトから景保宛の書簡に間宮宛の包みも入っていたので林蔵は規定通り届け出たところ、景保とシーボルトの関わりが明らかになったという。 |
| (出典要求に対し出典の提示が無いのでコメントアウトします。 |
| 出典に基づいた記述ならば出典を示してコメントをはずしてください。 |
| 編者の独自研究ならば削除してください間宮の立場としては意図して大師匠の息子を売った訳ではない。 |
| 当時のヨーロッパ情勢はナポレオン戦争が終結しウィーン体制へ移行されていたが、この体制は同盟国同士が連合して相手国を監視することによって勢力均衡を保とうとする性質のものであり、日本もその例外ではなかったのである。 |
| 水戸藩へも出入りし、川路聖謨らと交友する。 |
| 徳川斉昭や藤田東湖にも献策。 |
| 晩年は身体が衰弱し、隠密行動も不可能になったという。 |
| 梅毒を死因とする説もある杉浦守邦『江戸期文化人の死因』思文閣出版2008年。 |
| 1904年(明治37年)4月22日、贈正五位。 |
| 林蔵とアイヌ人女性との間に生まれた娘の子孫が現在でも北海道に在住している。 |
| 間宮林蔵顕彰会によると郷土史研究家の調査で子孫と確認された。 |