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つながりの強いひと
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張飛
中国後漢末期から三国時代の武将。字は益徳。涿郡(現在の河北省涿県)の人。『三国志』蜀志に伝がある。封号は新亭侯。諡は桓侯。子に張苞・張紹・敬哀皇后... |
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孫権
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後漢末から三国時代にかけて活躍した武将。呉を建国し初代皇帝に即位した。字は仲謀。長命で帝位に昇る相があるとされ、三国時代の君主の中で最も長命した。... |
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関平
後漢末期に劉備に仕えた武将。字は不詳。父は関羽、兄弟は関興。 |
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呂布
呂布(りょふ、?-建安3年(198年))は中国後漢末期の武将・群雄。字は奉先。五原郡九原県(現在の内蒙古自治区内)の人。『後漢書』巻75「劉焉袁術呂布列傳... |
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諸葛亮
中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍人。字は孔明(こうめい)。司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建... |
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趙雲
中国、後漢末から三国時代の蜀(蜀漢)に仕えた軍人。字は子龍(しりゅう)。常山郡真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。封号は永昌亭侯。諡は順平侯... |
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呂蒙
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中国、後漢末期の武将。孫策・孫権に仕えた。字は子明(しめい)。汝南郡富陂の人。『三国志』呉志に伝がある。 |
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張遼
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中国後漢末期、三国時代の武将。字は文遠(ぶんえん)。雁門郡馬邑県(現/山西省朔州市朔城区)の出身。子は張虎、孫に張統がおり、兄に張汎がいる。『三国志... |
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董卓
中国後漢末期の武将・政治家。涼州隴西郡臨&27950;の人。字は仲穎(ちゅうえい)。父は董君雅(『英雄記』)。母は池陽君。兄に董擢(『英雄記』)、弟に董旻... |
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顔良
中国の後漢時代末期の武将。顔氏家訓によると顔之推は顔良を同族と言っているので、それを信じれば顔良は徐州琅邪国臨沂県の人ということになる。 |
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徐晃
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後漢末期から三国時代にかけての武将。魏に仕えた。字は公明(こうめい)。河東郡楊県(現山西省洪洞県南部)の人。子に徐蓋、孫に徐覇。『三国志』魏志に伝... |
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于禁
中国、後漢末から三国時代の武将。字は文則(ぶんそく)。&20823;州泰山郡鉅平県の人。子は于圭。『三国志』魏志に伝がある。 |
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黄忠
中国後漢末期から三国時代の将軍。字は漢升。諡は剛侯。子に黄叙。劉備に仕え、益州や漢中の攻略等で活躍した。三軍筆頭の勇者と評された勇将である。 |
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曹仁
中国後漢末期から三国時代の武将。字は子孝(しこう)。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の人。曹操の従弟。曹純の兄。曹泰・曹偕・曹範らの父。曹初の祖... |
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陸遜
後漢、中国三国時代の武将、政治家。初名は陸議。字は伯言(はくげん)。謚は昭侯(しょうこう)。陸続の玄孫、陸襃の曾孫、城門校尉陸紆の孫、九江郡都尉陸... |
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孫策
孫策(そんさく、175年–200年)は中国の後漢末の武将。字は伯符(はくふ)。諡は長沙桓王。 |
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黒河奈美
日本の女性声優。大阪府出身。ぷろだくしょんバオバブ所属。 |
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関興
三国時代の官僚・軍人。蜀(蜀漢)に仕えた。字は安国、関羽の子。兄弟に関平がいる。子は関統・関彝。正史では関羽伝にてわずかに触れられているのみである... |
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袁紹
中国の後漢末期の武将・政治家。字は本初(ほんしょ)。豫州汝南郡汝陽県の出身。高祖父は袁安。曽祖父は袁京。祖父は袁湯。父は袁成又は袁逢。叔父に袁隗。... |
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プロフィール
- 関羽とは
- 劉備に仕える
- 忠義を貫く
- 荊州を預かる
- 孫権との衝突
- 樊城の戦いと最期
- 関羽の死後
- 人物
- 三国志演義では
- 死後の関羽と関羽信仰
- 参考書籍
関羽(かんう、GuanYu,162年( 延熹5年)?-建安24年(219年))は、中国後漢末期の武将。字は雲長(うんちょう)。元の字は長生。司隷・河東郡解(現在の山西省運城市常平郷常平村)の人。子に関平・ 関興。孫に関統・ 関彝。三国時代の蜀(蜀漢)の 創始者である劉備に仕えた武将。その人並み外れた武勇や義理を重んじる人物は敵の曹操や多くの同時代人から称賛された。後漢から贈られた封号は漢寿亭侯、諡は壮穆侯だが、諡号は歴代王朝から多数贈られた(爵諡を参照)。悲劇的な死を遂げたが、後世の人間より神格化され関帝(関聖帝君・
劉備に仕える
| 出身地から幽州涿郡に逃れてきた出身地は中国最大の塩湖である「解池」の近くにあり、そのため塩の密売に関っていたという推測もある。 |
| また、暴利をむさぼる塩商人を殺し、官吏に追われて幽州に逃げ、おそらく姓名を変えて関羽と名乗ったともいわれる。 |
| 黄巾の乱が起きると、義勇兵を挙げた劉備・張飛と出会い、張飛とともに劉備の護衛官を務めた。 |
| 劉備が平原の相になると、関羽は張飛と共に別部司馬に任命された。 |
| 劉備は関羽・張飛に兄弟のように恩愛をかけ、張飛は関羽が年長者であることから兄のように従ったという(『三国志』蜀志「張飛伝」)。 |
| しかし、関羽・張飛は大勢の前ではあくまで劉備を主君として立て、懸命に仕えた地元・山西省の研究では、関羽は劉備より年上ながら、劉備を兄として仕えたといわれている。 |
忠義を貫く
| 徐州を得た劉備は呂布と争い曹操を頼って逃れた。 |
| 建安3年(198年)、曹操が呂布を破ったとき、関羽は呂布の部将の秦宜禄の妻を娶ることを曹操に願い出たが、秦宜禄の妻を見た曹操は自分の側室としてしまった(『蜀記』)。 |
| 建安4年(199年)、劉備は曹操を裏切り徐州刺史の車冑を殺害し、徐州を占拠した。 |
| このとき、劉備は小沛に戻り、関羽が下邳の守備を任され太守の事務を代行した『魏書』によると、関羽が徐州を治めたという。 |
| 建安5年(200年)、劉備が東征してきた曹操の攻撃を受け、敗れて袁紹の元に逃げると、関羽は曹操の捕虜になった。 |
| 曹操は関羽を偏将軍に任命し、非常に手厚く礼遇したという。 |
| 曹操と袁紹が戦争となると(官渡の戦い)、関羽は呂布の降将の張遼と共に白馬県を攻撃していた袁紹の将の顔良の攻撃を曹操に命じられた。 |
| 関羽は顔良の旗印と車蓋を見ると、馬に鞭打って突撃し、大軍の真っ只中で顔良を刺し殺し、顔良の首を持ち帰った。 |
| この時、袁紹軍の諸将で相手になれる者はいなかったという(白馬の戦い)。 |
| 曹操は即刻上表して、漢寿亭侯に封じた。 |
| 曹操は関羽の人物を高く評価していたが、関羽が自分の下に長くとどまるつもりはないと思い、張遼に依頼して関羽に質問させたところ、関羽は劉備を裏切ることはないことと、曹操への恩返しが済んだら立ち去るつもりであることを述べた。 |
| そのことを張遼から聞いていた曹操は関羽の義心に感心したという。 |
| 顔良を討ち取るという功を立てた関羽は、必ずや劉備のもとに戻ると曹操は考え、関羽に重い恩賞を与えた。 |
| 関羽はこれらの賜り物に封をして、曹操に手紙を捧げて別れを告げ、袁紹に身を寄せた劉備の元へ去った。 |
| 曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対して、彼を追ってはならないと言い聞かせた。 |
荊州を預かる
| 劉備が袁紹の元を去って荊州の劉表の元に身を寄せると、関羽も同行した。 |
| 建安13年(208年)、劉備が襄陽の名士の諸葛亮を三顧の礼で迎え重用するようになると、張飛と共に不満を覚えたが、劉備は自分と諸葛亮との関係は、魚が水を欲するようなものである(水魚の交わり)と述べたという(『三国志』蜀志「諸葛亮伝」)。 |
| 同年、劉表が病死し曹操が荊州に侵攻すると、樊の地より南下して江陵を目指した劉備の指示で数百隻の船団からなる別働隊を率いた。 |
| 途中、長坂の当陽で曹操軍の追撃を受けた劉備は抜け道を使って漢津に逃れ、関羽の船団と合流し難を逃れ、共に夏口に向かった(長坂の戦い)。 |
| 孫権が劉備に援軍を出して曹操を防いだため、曹操は撤退した(赤壁の戦い)。 |
| 建安14年(209年)、荊州の南郡攻防戦では北道を封鎖し、曹操軍を防いだ。 |
| 劉備は江南の諸郡を平定すると、関羽のそれまでの功績を評価し、襄陽太守・盪寇将軍に任命した。 |
| 関羽は長江の北の守備を任された。 |
| 劉備が益州に入ると(劉備の入蜀)、関羽は諸葛亮と共に荊州の守備を任された。 |
| 後に劉備が益州を攻撃すると、諸葛亮は張飛・趙雲らと益州入りし、荊州には関羽が残って曹操と孫権に睨みを効かせた。 |
| この頃、荊州に駐屯していた曹操配下の楽進・文聘と国境で衝突している(『三国志』魏志「楽進伝」「文聘伝」)。 |
| 荊州刺史の傅羣の主簿の楊儀が下ってくると、関羽は楊儀を功曹に任命して、劉備の元に使者として派遣している(『三国志』蜀志「楊儀伝」)。 |
| 劉備が益州を征服すると、関羽の功績は張飛・諸葛亮と同等と評価された(『三国志』蜀志「張飛伝」)。 |
| 関羽は荊州の軍事総督に任命された『三国志』蜀志「先主伝」によると、劉備の牙爪となる武臣として、張飛・馬超と共に関羽の名がその筆頭にあがっている。 |
孫権との衝突
| 建安20年(215年)、荊州領有を巡る争いが解決しないことに業を煮やした孫権の命令で呂蒙らが長沙・桂陽・零陵の三郡を襲撃すると、関羽は3万の兵を率いて益陽に布陣。 |
| 劉備も大軍を率いて関羽の助勢に駆けつけ、一時は劉・孫同盟の崩壊の危機に至った(『三国志』蜀志「先主伝」)。 |
| だが、関羽と通じた長沙の安成・攸・茶陵の三県と、揚州廬陵の永新県の官吏らが桂陽の陰山城で謀反を起こし、続けて中郎将の袁龍・安成の県長呉碭が反乱を起こしたこと(『三国志』呉志「呂岱伝」)、さらにこの年、曹操が大軍を率いて漢中の張魯を攻撃したことなど、これらが両陣営に和平の機運をもたらし、関羽と魯粛の対談が実現した(単刀赴会)。 |
| 会談は孫権側の魯粛のペースで進行し、関羽はしばしばやり込められた(『三国志』呉志「魯粛伝」)。 |
| 結局、湘水を境界線とし、長沙・江夏・桂陽は孫権領に、南郡・武陵、そして一度は奪われた零陵が劉備領となった(『三国志』蜀志「先主伝」)。 |
| 建安22年(217年)の魯粛の死後、陸口に赴任した呂蒙は、関羽は攻め滅ぼす計画をひそかにめぐらしていたが、表面的にはこれまで以上に関羽と親密に接した(『三国志』呉志「呂蒙伝」)。 |
| しかし、関羽の荊州での統治ぶりは恩徳と威信がよく行き渡っていたため、なかなか機会を得ることができなかった(『三国志』呉志「陸遜伝」)。 |
| あるとき、孫権から関羽に対し、関羽の娘指名された関羽の娘は関羽の三女で、関羽の三女という意味から関三小姐と呼ばれる。 |
| 民間伝説では関銀屏という名前があり、関銀屏は李恢の子、李蔚に嫁ぎ夫婦の墓も存在している。 |
| に、孫権の子との婚姻の申し入れがあった時、関羽はこれを断り「虎の娘を犬の子にはやらん」との発言が『演義』等に見られるが、正史には見られない。 |
| ただし、注に引かれた『典略』によると、孫権は関羽に救援を申し出ていながら、わざとゆっくり兵を進めさせた。 |
| そこで関羽は「狢子」と孫権を罵倒したため、孫権は下手に出て陳謝したという。 |
| この記事を引いた裴松之は、関羽を襲撃した呂蒙は密かに兵を進めたが、援軍を送る約束をしていたならそのようにする必要はなかったとして、この記事の信憑性に疑問を呈している。 |
樊城の戦いと最期
| 建安23年(218年)、侯音は宛で曹操に対して反乱を起こし、関羽と手を結んだ。 |
| 建安24年(219年)春正月、曹操の部将の曹仁は宛を陥落させ、侯音を斬った。 |
| 劉備が漢中王を称するようになると、関羽は前将軍・仮節に任じられた。 |
| その後、関羽は水陸両軍を率い、子の関平・都督の趙累らと共に樊城を守る曹仁を攻撃した。 |
| 関羽は船団を率いて攻撃をかけ、于禁と彼が率いていた3万の兵を降伏させ、龐徳を斬った。 |
| また、このとき荊州刺史の胡修・南郷太守の傅方らが関羽に降っている。 |
| 関羽は樊城を完全に包囲し、別将を派遣して呂常が守る襄陽までも包囲した。 |
| 鄴においては丞相掾の魏諷までもが関羽に通じて反逆を起こし、中原は震動した。 |
| 曹操も狼狽して遷都まで考えるほどであったが、曹操の配下の司馬懿と蒋済は、これ以前に和議を結んでいた孫権を利用して、長江南を領有することを条件に関羽を背後から攻撃させる策を提案し、曹操は孫権と密約を結んだ『三国志』呉志「呉主伝」によると、孫権の側から曹操に対し、関羽を討つ申し出があったこととなっている。 |
| 曹操の配下の董昭は曹操に「樊城の将兵の士気を高めるためと、関羽の我が軍への戦意を喪失させるために、孫権が殿と同盟を結び関羽の背後を攻めることを、樊城の我が軍と関羽に漏らすべきです」と提案した。 |
| 関羽は孫権への備えを当初はおこたらず、長江沿いに守備兵を置いていたが、呂蒙が病気と称して前線を離れたこと、さらに後任として陸口に派遣されてきた陸遜の謙った手紙にすっかり油断してしまい、江陵・公安からさらに兵・物資を戦線に送ってしまったという(『三国志』呉志「呂蒙伝」、「陸遜伝」)。 |
| さらに、于禁ら降伏した曹操軍の捕虜を養うために、孫権軍の軍需物資を強奪したこともあった(『三国志』呉志「呂蒙伝」)『典略』によると、関羽は孫権に援助を出すことを要求し、援助が遅いことに怒りを覚え、孫権の使者を罵倒したこともあったという。 |
| 関羽は糜芳に南郡を、士仁(傅士仁)に公安を守備させていたが、関羽との2人の人間関係が揺らいでいたことに目をつけた呂蒙は、両名に誘いをかけ寝返らせ、関羽の本拠地の江陵・公安を奪った。 |
| 関羽は樊城を落とせないまま、徐晃に攻撃を受けて敗れ、樊城の包囲を解いた『蜀記』によると、関羽と徐晃は旧知の間柄で、再会して世間話を交わしたという。 |
| その後、孫権は関羽軍の輜重を奪ったが、それを聞いた関羽は襄陽の包囲も解き、撤退した『三国志』魏志「趙儼伝」。 |
| 使者の口からこのことを知った関羽の部下達は敵対心を失って、やがて関羽の軍は四散し、大半の将兵が孫権軍に降伏した(『三国志』呉志「呂蒙伝」)。 |
| 関羽は当陽まで引き返したのち、孫権が江陵に自ら軍を率いてきていることを知り、それを恐れて西の麦城に拠った(『三国志』呉志「呉主伝」「呂蒙伝」)。 |
| 援軍を上庸の劉封・孟達に求めたが拒絶された(『三国志』蜀志「劉封伝」)。 |
| しかし219年12月、臨沮において関羽は関平らと共に退路を断たれ、捕虜となり斬首された『三国志』呉志「呂蒙伝」によると、孫権は朱然と潘璋に命じて関羽の退路を塞がせたとある。 |
| また同書「呉主伝」によると、章郷で潘璋の部下の馬忠が関羽・関平・趙累を捕虜としたという。 |
| だが裴松之は、「正史の記述から、関羽は臨沮で即座に斬殺されており、おそらく江陵に居たであろう孫権に同意を求める事は不可能だろう」と推測している。 |
| また、『三国志』呉志「諸葛瑾伝」注によれば、裴松之は「孫権は関羽を討伐した事により、後漢王室の為に尽くすという大義名分は失われた」と評している。 |
関羽の死後
| 章武2年(222年)、関羽を殺された劉備は怒りのあまり呉に対して夷陵の戦いを起こしたが、大敗を喫した。 |
| 景耀3年(260年)、蜀漢の2代皇帝劉禅より壮穆侯の爵諡を送られた。 |
| 関羽の子孫は蜀漢の列侯の1人として続いたが、炎興元年(263年)に鍾会らにより蜀が滅んだ際、龐徳の子であった龐会が関羽の一族を皆殺しにしたという(『蜀記』)。 |
人物
| 関羽には「自信過剰な上に、部下には優しいが同格の士大夫を見下す」という悪癖があった関羽は庶人から成り上がっており、元々士大夫より低い身分だった。 |
| 黄忠が後将軍に任じられた際「あんな老いぼれと同格か」と不満を表し、前将軍への就任を拒否しようとして、使者である費詩にたしなめられたり(『三国志』蜀志「費詩伝」)、馬超が帰順してきた際、彼の人物について問い合わせ、関羽の性格を知っていた諸葛亮から「益徳(張飛)と張り合える程勇猛だが、髭どの(関羽)の武勇にはやはり及ばない」と煽てられ、その手紙を大喜びで来客に見せびらかしたりしたという。 |
三国志演義では
| 小説『三国志演義』では、身の丈9尺(約216cm)、2尺(約48cm)の髭、「熟した棗(=なつめ)の実のような」と形容される紅顔で重さ82斤(約48kg)の青龍偃月刀(冷豔鋸:れいえんきょ)と呼ばれる大薙刀を持ち、赤兎馬に跨っている。 |
死後の関羽と関羽信仰
| 明初には神号「協天護国忠義関聖大帝」とされてから、熹宗皇帝が「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」に封じ、清代に入ると順治帝が「忠義神武関聖大帝」として、後に宣統帝が「忠義神武霊佑仁勇威顕開聖大帝」と次々と追贈している。 |
| 『水滸伝』には関羽の子孫である関勝が、銭彩原『説岳全伝』には関勝の子関鈴がそれぞれ登場する。 |
参考書籍
| 『正史 三国志5 蜀書』 (陳寿、裴松之注/井波律子訳、ちくま学芸文庫)ISBN4480080457。 |
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