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つながりの強いひと
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蒋介石
蒋介石(しょうかいせき、、1887年10月31日-1975年4月5日)は中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統。孫文の後継者として北伐... |
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日華
鎌倉時代中期から後期にかけての日蓮宗の僧。号は寂日房。二十家阿闍梨とも称される。甲斐国の出身。日興の有力な門弟の本六の一人。1276年(建治2年)日興が... |
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李宗仁
その3人の中でも李が最高指導者とみなされる。国共内戦期には中華民国副総統に当選し、内戦最終盤に短期間ながら代理総統も務めた。字は徳鄰。 |
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張学良
中華民国の軍人・政治家。張作霖の長男である。字は漢卿。 |
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孫文
中国生まれ・アメリカ国籍の政治家・革命家。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また... |
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袁世凱
袁世凱(えんせいがい、1859年9月16日(咸豊9年8月20日)-1916年6月6日)は中国清末民初期の軍人・政治家。大清帝国第2代内閣総理大臣、中華民国臨時大総統、... |
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張作霖
張作霖(ちょうさくりん,ZhangZuolin)は中華民国初期の軍閥政治家で、北洋軍閥の流れを汲む奉天派の総帥。満州の統治者であり張学良・張学銘・張学思の父。... |
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趙戴文
清末民初の政治家。民国期に山西省を統治した閻錫山の腹心である。字は次隴。 |
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奥村和一
元日本兵、敗戦後も中国山西省に残留し、ドキュメント映画「蟻の兵隊」の主人公である。 |
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池谷薫
1967年の池谷・関彗星(C/1967Y1)以来、実に35年ぶりのことであった。最近では映画「ガラスの使徒」のモデルともなった。2010年現在、反射望遠鏡の反射鏡の... |
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汪兆銘
汪兆銘(おうちょうめい、1883年5月4日-1944年11月10日)は中華民国の政治家。字は季新。号は精衛(中華圏では「汪精衛」と呼ぶのが一般的である)。知日派と... |
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宋哲元
宋哲元(そうてつげん)は中華民国の軍人。最初は北京政府、国民軍、後に国民革命軍(国民政府)の軍人となる。馮玉祥配下の「五虎将」(他は張之江・鹿鍾麟... |
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何応欽
何応欽(かおうきん)は中華民国の軍人。字は敬之。 |
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徐永昌
中華民国の軍人。北京政府、国民軍、国民政府(国民革命軍)、山西派に属した。字は次宸。 |
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呉佩孚
呉佩孚(ごはいふ)は清末民初の軍人・政治家。北洋軍閥直隷派の首領。字は子玉。山東省に商人の家庭に生まれる。科挙に合格し官吏登用の道が開かれるも、事... |
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楊愛源
中華民国の軍人。北京政府、国民政府(国民革命軍)、山西派に属した。字は星如。別号は革非。 |
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傅作義
長年にわたり水利部長をつとめている。字は宜生。 |
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郭松齢
清末民初の軍人。北京政府、奉天派の有力軍人である。初期は中国同盟会、護法軍政府でも活動したことがあり、北方各軍の中では異色の経歴の持ち主である。字... |
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周恩来
周恩来(しゅうおんらい、ヂョウ・オンライ、1898年3月5日-1976年1月8日)は中華人民共和国の政治家。字は翔宇。妻は鄧穎超、子女は孫維世(養女・文化大革命... |
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江沢民
中華人民共和国の政治家。鄧小平引退後の中華人民共和国の最高指導者で、中国共産党中央委員会総書記、中華人民共和国主席、中国共産党中央軍事委員会主席、... |
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プロフィール
閻錫山(えんしゃくざん)は中華民国の軍人、政治家。山西省を拠点に勢力を誇った軍閥(山西派()/())の頭領。日本に留学した知日派だった。字は伯川。号は龍池。
略歴
| 1883年(光緒9年)に山西省五台県河辺村で「牛農牛商」の家に生まれた。 |
| 19歳のとき、太原にある国立山西武備学堂に入学、1904年(光緒30年)、21歳のときに日本に留学、東京振武学校(士官学校の予備校)を経て陸軍士官学校に学ぶ。 |
| 留学した翌年、孫文率いる中国革命同盟会に加入した。 |
| 弘前歩兵第31連隊勤務などを経て、1909年(宣統元年)に帰国、山西陸軍第二標の教官、標統に着任する。 |
| そして1911年(宣統3年)の辛亥革命の際に挙兵し、国民政府成立後、袁世凱の命により山西都督に就任した。 |
| 都督に就任した閻錫山は山西省の軍政両権を握り、民国初年から中央政府と不即不離の関係を維持した。 |
| 「保境安民」(山西モンロー主義)を唱えて内治に力を入れる。 |
| 豊富な資源を利用して早くから工業化に力を入れ、山西省を優秀省に育てた。 |
| 鉄道建設、教育機関の充実などの功績は高く、現在でも山西庶民の間で評価されている。 |
| 1927年(民国16年)に国民革命軍北方総軍司令に就任して国民政府の北伐に協力。 |
| 国府中央の党中央政治会議委員、政府軍事委員会常務委員を任ぜられ、翌年には党中央執行委員に当選した。 |
| 第三集団軍総司令、太原分会主席、平津衛戌総司令、陸海空軍副総司令などの要職を歴任し、勢力を山西省から綏遠・察哈爾、河北、北津へと広げた。 |
| しかしその後、山西モンロー主義を放棄して二度の反蒋戦争に参加したが敗れ(中原大戦)、大連に逃れた。 |
| ここで日本の庇護を受けたとされる。 |
| のちに国民政府に帰参し、1932年(民国21年、昭和7年)に太原綏遠公署主任を任ぜられて復権した。 |
| 1936年(民国25年)の綏遠事件では、晋綏軍が日本の支援を受けた内蒙軍を撃退した。 |
| 抗日意識が高まるなか、西の陝西省から侵攻してきた中共と妥協し(犠牲救国同盟会の成立)、反共から「連共抗日」路線への転換を余儀なくされた。 |
| 翌年、日中戦争による日本軍の侵攻で大打撃を受けた。 |
| 戦争中は第二戦区司令官に就任するが、日本軍、国府中央軍、中共軍の進出で支配の基盤が動揺した。 |
| 1939年(民国28年)には、勢力を増大させた中共との間で衝突(晋西事件)も起きた。 |
| 1941年(民国30年)9月には日本の「対伯工作」を利用して現地日本軍と停戦協定を締結し、兵力を温存した。 |
| 戦後は国共内戦のなか、残留した日本兵(中国山西省日本軍残留問題を参照)の部隊(暫編独立第十総隊)を使って中共軍と戦った。 |
| しかし、1949年(民国38年)3月、中共軍によって太原が包囲されると閻錫山は飛行機で太原を脱出、南京、広州を経て台湾に逃れた。 |
| 1950年(民国39年)まで中華民国行政院長兼国防部長を勤めた。 |
| 辞任後は総統府資政、国民党中央評議員に就任して、反共著述に専念した。 |
| 1960年(民国49年)5月23日に台北北部陽明山にある居宅で死去。 |
著作
| 『閻錫山の防共政策』(統治問題研究所,1928年)。 |
| 『世界平和のために』(文川堂書房、1950年)。 |
| 『共産主義の何に反対するか?何に依って反共するのか?』(大同学社,1951年)。 |
| 『大同の路』(大同学社、1952年)。 |
| 『大同国際宣言草案』(閻錫山、1955年)。 |
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