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闔閭
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つながりの強いひと
夫差
中国春秋時代の呉の第7代、最後の王。姓は姫。春秋五覇の一人に数えられる。先代の呉王闔閭の次男。越王勾践によって討たれた父・闔閭の仇を討つため、伍子胥...
伍子胥
春秋時代の政治家、軍人。諱は員(うん)。子胥は字。呉に仕え、呉の躍進に大きく貢献したが、次第に呉王から疎まれるようになり、最後には誅殺された。
勾践
中国春秋時代後期の越の王。范蠡の補佐を得て当時華南で強勢を誇っていた呉を滅ぼした。春秋五覇の一人に数えられることもある。句践とも表記される。越王允...
孫武
中国古代の武将・軍事思想家。兵法書『孫子』の作者とされており、兵家の代表的人物。春秋時代の斉国出身。字は長卿。。孫&33231;の先祖。「孫子」は尊称であ...
呉越
中国の俳優。中国には同姓同名の男優と女優が存在するが、この項目では男優の呉越について述べる。
平王
周朝の第13代王。平王の時代より周は東周と称されるようになる。子は太子洩父、王子狐、王子烈ら。宜臼は元来幽王の太子であったが、褒姒が後宮に入り寵愛を...
季札
中国春秋時代の呉で活躍した政治家。姓は姫。呉の初代王寿夢の幼子。清廉賢哲を以って知られ、延陵の季子として知られる。
荘王
荘王(そうおう、?-紀元前591年 在位:紀元前614年-紀元前591年)は中国春秋時代の楚の第6代の王。姓は羋、氏は熊、諱は侶、または旅、諡は荘。楚の歴代君主...
寒山
中国で唐代に浙江省にある天台山の国清寺に居たとされる伝説的な風狂の僧の名である。『寒山子詩』の作者とされる。後世、拾得と共に有髪の姿で禅画の画題と...
文公
中国春秋時代の晋の君主。姓は姫、諱は重耳(ちょうじ:Chong'er)、諡は文。晋の公子であったが、国内の内紛をさけて19年間諸国を放浪したのち、帰国して君...
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桓公
桓公(かんこう)は春秋時代・斉の第16代君主。春秋五覇の筆頭に文公と並び数えられる。鮑叔牙の活躍により公子糾との公位継承争いに勝利し、管仲を宰相にし...
文王
中国の周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。父季歴と母太任の子。周王朝の創始者である武王の父にあたる。文王は商に仕えて、三公(特に重要な三人の諸侯)の地位に...
昭王
諸侯のあいだで周知であったとみえる。
始皇帝
始皇帝(,シーフアンティ)または秦始皇(,チンシーフアン)と称される。元来は秦王として紀元前246年に即位した。前221年には史上初めて中国を統一し、中国史上...
孫権
後漢末から三国時代にかけて活躍した武将。呉を建国し初代皇帝に即位した。字は仲謀。長命で帝位に昇る相があるとされ、三国時代の君主の中で最も長命した。...
季歴
中国殷の時代の周の首長。古公亶父の三男。太任をめとる。後の文王こと昌の父。武王によって追尊され、王季と称された。古公亶父には季歴のほかに長男太伯、...
伯州犂
伯州犂(はくしゅうれい/はくしゅうり、?-紀元前515年)は中国春秋時代の楚の政治家。晋の伯宗の子。共王・康王・郟敖・霊王・平王・昭王の六代の王に仕えた...
周王
多くの面で狩猟採集経済に依存していた。その様子は、後期に「歴史学特殊講義」で紹介する『詩経』「七月」の詩などからも窺える。周代の生産関係についても...
子産
子産(しさん?-紀元前522年)は春秋時代の鄭に仕えた政治家。姓は姫、氏は国、諱は僑、字は子産。鄭の穆公を祖父、子国(公子発)を父とする。弱小国・鄭を安...
霊王
霊王(れいおう)は周朝の第23代王。簡王の子。子沢山で、兄弟順として太子姫晋、姫佞夫、姫貴(景王)、姫還、姫姑、姫溌、姫弱、姫鬷、姫延、姫定、姫稠、...
プロフィール
闔閭とは
王位争い
即位後
闔閭(こうりょ、?-紀元前496年/在位:紀元前514年-紀元前496年)は、中国春秋時代の呉の第6代の王。姓は姫。家臣の
孫武
、
伍子胥
などの助けを得て、呉を一大強国へと成長させ覇を唱えたが、越王
勾践
に敗れ、子の
夫差
に復讐を誓わせて没した。春秋五覇の1人に数えられることがある。闔廬とも表記される。
王位争い
『史記』呉太伯世家によると、呉の初代王寿夢の長子は諸樊であった。
寿夢にはこれ以外に3人の子がおり、中でも末子の
季札
は賢人として名が高かった。
父・寿夢もそれに期待して
季札
を王にしたいと願っていた。
しかし
季札
は兄を差し置いて自分が王位に即くことに抵抗し、受けようとしなかった。
そこでまず諸樊が王位を継ぎ、その後を第2子の余祭が継ぐなど兄弟継承の順に続けて、最後に
季札
に王位が回るようにした。
しかし
季札
は第3子の余昧から王位を譲られようとした所で、これを拒否して逃亡してしまい、王位は結局、余昧の子である僚へと継承されることになった。
これに光は不満を抱いた。
今まで兄弟の間で順番に王位を回してきたのだから
季札
が王になるのならともかく、
季札
が王位を辞退した後は順番どおりに諸樊の子である自分が王位を継ぐべきではないかと、判断した。
彼はその不満を隠しつつ僚に仕え、将軍として活躍していた。
その折、楚より
伍子胥
が亡命してきて光の野望を察し、暗殺の実行犯に専諸『春秋左氏伝』では鱄設諸。
を推薦した。
515年夏4月、光は僚を宴会に招待した。
光の命で専諸は僚の元へ魚料理を運び、魚の中に仕込んでいた匕首を持って僚を一突きにして殺し、専諸自身も護衛に
殺された
と記されている。
このため、王位についた光こと闔閭は専諸の子を卿に任命した。
しかし、『春秋左氏伝』では、寿夢(乗)が逝去し、後を継いだ長男の諸樊(遏)は紀元前548年の冬12月に楚に討伐し、楚将で巣の牛臣と戦い戦没した。
次弟の余祭は紀元前544年(『史記』では紀元前531年に逝去)、脚を切断され門衛にされた越の捕虜によって惨殺された。
三弟の余昧(夷末)は紀元前527年の正月に逝去した。
四弟の僚(州于/『史記』では余昧の息子)がその後を継いだと記されている。
つまり、
季札
は僚の叔父ではなく弟であり(同時に僚は
季札
のすぐ上の兄である)、諸樊の子である闔閭(光)にとってもいとこではなく、叔父に当たる僚に対してクーデターを起こしたことになり、『史記』との記述が食い違う部分が多く、呉王僚に至る「兄弟相続」としては順当という見方もある。
また、寿夢・
季札
の逸話に関しては、同様の話が
伯夷・叔斉
や
古公亶父
・
季歴
など多く見られるが、これは兄弟相続・末子相続の風習を儒教的な美談に仕立て上げたものではないかと疑う学者も多い。
即位後
光は即位して呉王・闔閭となった。
伍子胥
・
孫武
などを擁して超大国・楚と何度も対決し、紀元前506年には楚の首都・郢を陥落させる大戦果を挙げた。
しかし本国が越
王允
常によって攻め入られ、さらに弟の夫概(夫槩)が王を名乗って呉を乗っ取ろうとしたため、郢より脱した楚王を追撃せず、慌てて本国へ戻ってこれを平定した前506年に闔閭が楚の都である郢を占領したとき、王宮のうち旧令尹邸を末子の子山に与えた。
しかし叔父の夫槩が子山を攻撃したので、叔父を恐れた子山は立ち退いて、父の陣営に向かった。
代わって夫槩がここを本営とした(『春秋左氏伝』)。
紀元前496年、越
王允
常が逝去し、太子・
勾践
が後を継ぐ報告を聞くと、10年前の恨みを晴らすために越へと攻め込む。
しかし、檇李(現・浙江省嘉興市)で、越の将軍・范蠡の奇策の前に敗れ、越の武将である霊姑孚が放った矢によって足の親指に矢傷を負い、これが元で死去した。
臨終の際に、次男の
夫差
に対して「
勾践
が父を殺したことを忘れるな」と遺言し、復讐を誓わせた闔閭は3人の息子がいた。
長男は太子波前述の『史記索隠』が引く『竹書紀年』による。
『春秋左氏伝』では太子終纍)、次男が
夫差
、三男が公子子山(『春秋左氏伝』)である。
闔閭 - Wikipedia
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