| 被差別部落出身とされる |
| 上原善広『異形の日本人』p.142-147(新潮新書、2010年)。 |
| 生業の草履表づくりを手伝いながら、将棋を覚える。 |
| 1886年(明治16年)ごろ、日本橋の履き物問屋に丁稚奉公、町角の縁台将棋によく顔を出し大人を負かせるなど早熟の天才振りを見せていた。 |
| だが、将棋に夢中になるあまり背負っていた奉公先の子供を負傷させ、暇を出されたといわれている。 |
| その後は実家に帰り家業を手伝いながら賭け将棋で腕を磨き、素人(アマチュア)の将棋指しとして大阪で有名になる。 |
| 1899年(明治29年)頃、関根金次郎と堺で初対決し、惨敗したことでプロの道を決意したと言われている。 |
| この対局は両者とも賭け将棋を否定しているが、賭け将棋であるとの意見もある(岡本嗣郎「9四歩の謎孤高の棋士・坂田三吉伝」より)。 |
| 関根とは1906(明治39)年4月22日大阪阿弥陀池で二度目の対局(関根の香落ち)をする。 |
| 双方互角の勝負であったが、終盤坂田が千日手を打開してペースが狂い惜敗する。 |
| 坂田にとって「私を本物の将棋指しにしてくれた」一戦であった。 |
| 以後坂田は打倒関根を目標として貧困や自身の眼病などの危機を乗り越えていく。 |
| さらに自身の才能を見出す後援者にも恵まれ、1908(明治41)年大阪朝日新聞嘱託となる。 |
| こうして生活も少しずつ安定し同時に技術人格ともに成長していく。 |
| 1910年(明治43年)7月、阪田三吉七段を盟主とする関西将棋研究会が設立される。 |
| 1913年(大正2年)4月、関根金次郎八段と対局(関根の香落ち)して勝利をする。 |
| この対局において後に阪田は『銀が泣いている』という言葉を残している。 |
| 1917年(大正5年)に八段となり、翌年にかけて関根と平手で6局の対局をし4勝2敗と勝ち越す。 |
| だが、関根の一番弟子の土居市太郎七段に破れた。 |
| 1921年(大正10年)5月、小野五平名人死去を受け、関根が「十三世名人」を襲位した。 |
| 阪田も関根の名人襲位には賛成していた。 |
| だが、1925年(大正14年)3月、京阪神の財界有力者八十余名の主唱者により名人に推薦され、「名人」を名乗る。 |
| この背景には、関東大震災の後を受けた1924年の「東京棋界再編」の結果、阪田以外には土居市太郎のみだった「八段」が、木見金治郎、大崎熊雄、金易二郎、花田長太郎と一挙に増えたことに対する不満があったとされる。 |
| (岡本嗣郎「9四歩の謎孤高の棋士・坂田三吉伝」では、さらにそれに加え、阪田自身に魅力があったことと、京阪神の財界有力者達の東京に対する対抗意識がそうさせたのではないか、との推論を述べている)このことが名人僭称とされ、棋界を追放される原因となった。 |
| 1937年(昭和12年)に和解し将棋大成会(現在の日本将棋連盟)に復帰。 |
| 同年2月に京都の南禅寺で木村義雄八段と対局(「南禅寺の決戦」、後述)、3月には天龍寺で花田長太郎八段と対局。 |
| いずれも「後手番、初手端歩突き」の奇策を取るが、連敗した。 |
| 復帰後、八段格として第2期名人戦挑戦者決定リーグ(八段リーグ)に参加し7勝8敗の成績をあげた。 |
| その後引退し、引退後は大阪市東住吉区田辺の自宅にこもり、文字通りの隠遁生活であった。 |
| 終戦直後食当たりで急死したが(少し傷んでいた鯨肉を、家族の知らぬ間に食べてしまったのが原因といわれている)、阪田の死亡を報じる新聞記事はたった10行のベタ記事で写真もなく、おまけに死亡日が3日も異なっていたという。 |
| 没後、1955年(昭和30年)、日本将棋連盟から名人・王将の称号が贈られた。 |
| 大阪市浪速区の新世界の通天閣下には「王将」の碑がある。 |
| 墓は大阪府豊中市の服部霊園。 |
| 阪田三吉墓は清水次郎長の墓と同じ様に扱われてか、将棋の駒型の墓石を金槌で打ち欠き、その破片を勝守りとする人が絶えず、結果として墓石自体がひどく傷付けられた状態にある。 |