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つながりの強いひと
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百済
古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系扶余族による国家(346年-660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅... |
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阿莘王
kotobank > 阿莘王とは 阿莘王 【あしんおう】 1件の用語解説(阿莘王で検索) Tweet デジタル版 日本人名大辞典+Plus の解説 阿莘王 あしん... |
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辰斯王
辰斯王(しんしおう、生年不詳-392年)は百済の第16代の王(在位:385年-392年)。第14代の近仇首王の次男であり、先代の枕流王の弟に当たる。諱・諡は『三国... |
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枕流王
枕流王(ちんりゅうおう、生年不詳-385年)は百済の第15代の王(在位:384年-385年)であり、先代の近仇首王の嫡子。母は阿爾夫人。384年4月に先王が死去し、... |
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百済王
百済王氏と古代日本 この本を 1 2 3 4 5 6 7 8 9 冊買う 10冊以上買う お困りの方 大坪 秀敏著 税込価格: (本体 : ) bk1ポイント倶楽部 : 60 ... |
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腆支王
腆支王(てんしおう、生年不詳-420年)は百済の第18代の王(在位:405年-420年)であり、先代の阿莘王の長子。『梁書』では余映(余は百済王の姓)、『日本書... |
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弓月君
弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ、生没年不詳)とは『日本書紀』に記述された秦氏の先祖とされる渡来人である。『新撰姓氏録』では融通王ともいい、秦の帝室の後... |
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王仁
記紀に記述される百済から日本に渡来し、漢字と儒教を伝えたとされる人物。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。高... |
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近肖古王
近肖古王(きんしょうこおう、生年不詳-375年)は百済の第13代の王(在位:346年-375年)であり、第11代の比流王の第2子。中国・日本の史書に初めて名の現れ... |
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応神天皇
第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日(270年2月8日)-同41年2月15日(310年3月31日))。諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけの... |
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瑠璃明王
高句麗の第2代王(在位:前19年-後18年)であり、姓は高、諱は類利、または孺留。初代の東明聖王(朱蒙)の長子であり、『三国史記』百済本紀によれば、異母弟... |
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聖王
百済の第26代の王(在位:523年-554年)。先代の武寧王の子。『三国史記』百済本紀・聖王紀によれば諱は明穠。先王が523年5月に死去したことにより、王位につ... |
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威徳王
百済の第27代の王(在位:554年-598年)。先代の聖王の長子。諱は『三国史記』百済本紀・威徳王紀では昌、『三国遺事』王暦では高、または明。554年7月に先王... |
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武寧王
百済の第25代の王(在位:502年-523年)。『三国史記』百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第2子であり、諱を斯摩、分注では隆とする。『梁... |
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東晋
中国の西晋王朝が劉淵の漢(前趙)より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である(317年-420年)。西晋に対し史書では東... |
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義慈王
百済の第31代、最後の王(在位:641年-660年)で、諱の義慈のままに義慈王と記される。第30代の武王の嫡男である。『旧唐書』などには扶余義慈(扶余または余... |
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蓋鹵王
百済の第21代の王(在位:455年-475年)。先代のの長子であり、『三国史記』によれば諱は慶司。また、近蓋婁王とも記され、『日本書紀』には加須利君(かすり... |
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仇首王
仇首王(きゅうしゅおう、生年未詳-234年)は百済の第6代の王(在位:214年-234年)であり、先代の肖古王の長子。『三国史記』百済本紀・仇首王紀の分注や『... |
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神功皇后
仲哀天皇の皇后。『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひ... |
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肖古王
肖古王(しょうこおう、生年未詳-214年)は百済の第5代の王(在位:166年-214年)であり、先代の蓋婁王の子。『三国史記』百済本紀・肖古王紀の分注や『三国... |
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プロフィール
阿莘王(あしんおう、生年不詳-405年)は百済の第17代の王(在位:392年-405年)。『三国史記』百済本紀・ 阿莘王紀の分注には別名の阿芳王が伝えられ、『日本書紀』では阿花王(あくえおう)とされる。諱・諡は『三国史記』には伝わらない。第15代の 枕流王の長男であり、 枕流王が385年11月に死去したとき、 阿莘王がまだ幼かったので叔父の 辰斯王が第16代の王位を継ぎ、 辰斯王が392年11月に死去して 阿莘王が第17代の王位についた。即位の経緯について ...
治世
| 即位の直前(392年10月)に高句麗に奪われた関彌城好太王碑文では閣彌城と記され、黄海道延白郡海月面姑美里に比定する説と、京畿道江華郡喬洞面華蓋山に比定する説とがある。 |
| について、百済北辺の要衝の地であるとして奪回を企てた。 |
| 勇将であった真武(王妃の父)を左将に据えて、393年8月には一万の兵を率いて高句麗の南辺を討伐しようとしたが、高句麗兵の籠城戦の前に兵站が途切れたために撤退することとなった。 |
| 翌年にも高句麗と戦って敗れており、さらに396年には好太王に漢山城(京畿道広州市)まで攻め入られて大敗した。 |
| 阿莘王は高句麗への服属を誓わされ、王弟や大臣が高句麗へ連行されることとなった。 |
| しかし服属を誓いながらも、倭国との修好を結んで高句麗に対抗しようとし、太子(後の腆支王)を倭国へ人質として送ってもいる。 |
| こうして高句麗との戦いは続けられたが、敗戦を重ねるだけであった。 |
| また、399年高句麗討伐の為の徴発が厳しく、百済から新羅に逃れる者も多く出た。 |
| 『好太王碑文』によると399年から倭の新羅侵攻がおこっており、倭は新羅国境に満ちて城池を潰破して、さらに翌400年になると倭が新羅の首都を占領する状況にあったが、この399年に百済は高句麗との誓いを違えて倭と通じている。 |
| 後に403年には新羅への侵攻も試みている。 |
| 倭国との修好についてはこのほか、『三国史記』によれば402年5月にも使者を派遣(目的は宝玉の入手か)遣使倭國求大珠。 |
| (『三国史記』百済本紀・阿莘王11年5月条)しており、403年2月には倭国からの使者を迎え、特に手厚くねぎらった、と記されているが、使者の往来に関する記事は日本側の資料には見られない。 |
| また、『古事記』に記される「百済から献上された和邇吉師(王仁)」は阿莘王の時代に相当するが、王仁に比定されうる人物は半島側の資料には見られない。 |
| 詳しくは王仁を参照。 |
| 在位14年にして405年9月に死去した。 |
| このとき、太子は倭国に人質として送ったままであったため、太子が腆支王として即位するまでの間に兄弟間での内乱が生じている。 |
参考文献
| 『三国史記』第2巻金富軾撰井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983ISBN4-582-80425-X。 |
| 『朝鮮史』武田幸男編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000ISBN4-634-41320-5。 |
| 『日本書紀』伴信友校訂岸田吟香他1883(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)。 |
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