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つながりの強いひと
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恩荷
7世紀半ばの飛鳥時代に日本の秋田地方にいた蝦夷(えみし)の人物である。現在の秋田市周辺の蝦夷の長であった。658年に阿倍比羅夫の水軍を齶田(秋田)で迎... |
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百済
古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系扶余族による国家(346年-660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅... |
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小乙
小乙(しょういつ)は殷朝の第21代帝。小辛の弟。 |
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安倍貞任
平安時代中期の武将。安倍氏の棟梁・奥六郡の俘囚の豪族安倍頼時の第2子。安倍厨川次郎貞任とも。妹聟に藤原経清がいる。 |
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天智天皇
同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号で... |
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大彦命
大彦命(おおびこのみこと、生薨年不詳)は古代日本の皇族。大毘古命とも言う(『古事記』)。孝元天皇の第1皇子で、生母は皇后鬱色謎命(うつしこめのみこと... |
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源頼義
平安時代中期の武将。河内源氏初代・源頼信の嫡男で河内源氏二代目。 |
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安倍頼時
安倍頼時(あべのよりとき)は平安時代の武将。陸奥国奥六郡を治めた俘囚長。陸奥大掾(陸奥権守とする説がある)・安倍忠良の子。孫に奥州藤原氏の初代藤原... |
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松浦武四郎
松浦武四郎(まつうらたけしろう、文化15年2月6日(1818年3月12日)-明治21年(1888年)2月10日は江戸時代、幕末から明治時代にかけて活動した日本の探検家、... |
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有間皇子
孝徳天皇の皇子。母は左大臣・阿倍内麻呂の娘・小足媛。天智天皇の娘、明日香皇女・新田部皇女姉妹とは母方の従兄妹になる。後世には「有馬」と表記される例... |
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安倍宗任
平安時代中期の武将。陸奥国の俘囚の長とされる豪族、安倍氏の安倍頼時の子。鳥海柵の主で、鳥海三郎とも呼ばれる。 |
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左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅(たいふ)」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」... |
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坂本太郎
特撮テレビドラマ作品の監督・演出家である。岡山県出身。日本大学藝術学部卒業。 |
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蘇我入鹿
飛鳥時代の政治家。大臣として大和朝廷の有力者であったが、大化の改新の前夜乙巳の変において討たれ、その後、蘇我氏が凋落するきっかけとなった。 |
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坂上田村麻呂
平安時代の武官である。名は田村麿とも書く。正三位、大納言兼右近衛大将兵部卿。勲二等。死後従二位を贈られた。 |
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阿倍仲麻呂
奈良時代の遣唐留学生。姓は朝臣。中務大輔・阿倍船守の子。弟に阿倍帯麻呂がいる。唐で科挙に合格し唐朝諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果た... |
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新井白石
江戸時代中期に活躍した旗本・政治家・学者である。学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に渡る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、... |
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中大兄皇子
『中大兄皇子伝〈下〉』 (黒岩 重吾) 詳細/レビュー クリップ( 0 人) リスト管理/履歴 中大兄皇子伝〈下〉 ⇒ Amazonで詳細を見る 装... |
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竹浪比呂央
一見パターンデザインと思わせながら実はねぶたの顔がびっしり並んでいる「ねぶたネクタイ(ねぶタイ)」です。 胸元からさりげなく「青森」をアピールする ... |
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藤原京
飛鳥京の西北部、奈良県橿原市に所在する日本史上最初で最大の都城である。また、日本史上最初の条坊制(じょうぼうせい)を布いた本格的な唐風都城でもある... |
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プロフィール
- 阿倍比羅夫とは
- 出自
- 蝦夷征討・粛慎討伐
- 白村江の戦い
- 系譜
- 関連項目
- 阿倍比羅夫が登場する作品
- 参考文献
阿倍比羅夫(あべのひらふ、生没年不詳)は7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将軍・大宰帥を歴任した。658年から3年間日本海側を北に航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。
出自
| 阿倍氏は古くから越・北陸道方面の計略で活躍した氏族である。 |
| 複姓が多く見られ、阿倍引田臣もその一つ。 |
| 引田臣の性格については、比羅夫の活動にも関連して二説ある。 |
| 一つは中央豪族である阿倍氏の一支族とするもの、もう一つは越国の地方豪族とするものである。 |
| 中央出身説は、当時の国司が中央豪族から派遣されていたことを根拠とする新野直吉『古代東北史のひとびと』19頁。 |
| 比羅夫の父親の名は必ずしもはっきりしないが、各種系図(「阿倍家系」(『備後福山阿倍家譜』所収)、鈴木真年『百家系図稿』巻5,阿倍)では、阿倍氏の宗族である目とするものが多い。 |
| しかし目は敏達朝の人物であり時代が合わず、さらに前述の系図は比羅夫の子孫に伝わったものと想定され、比羅夫の系統を阿倍氏の宗族に位置づけようとした意図が考えられることから、比羅夫を目の子とするのは疑問とする宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年。 |
| 一方、太田亮は越国守であることを根拠に越国造家の一族の可能性を指摘している太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年。 |
| なお、『日本書紀』で比羅夫の活動を記す部分は、当時の阿倍氏宗家(阿倍御主人の布勢氏)が提出した家記によると推定されているが、「阿倍臣(名を欠く)」と人名は記されていない。 |
| 歴史学者の坂本太郎は、書紀編纂時の阿倍宗家が引田氏を快く思わなかったために、敢えて名を隠して阿倍氏の活躍とだけ記した史料を提出したのではないかと推定している坂本太郎「日本書紀と蝦夷」189-193頁。 |
蝦夷征討・粛慎討伐
| 『日本書紀』によれば、658年に水軍180隻を率いて蝦夷(北海道)を討ち、さらに「粛慎」(樺太)を平らげた。 |
| 粛慎は本来満州東部から樺太に住むツングース系民族を指すが、『日本書紀』がどのような意味でこの語を使用しているのか不明である。 |
| 蝦夷以外のオホーツク文化人とも推測される。 |
| 翌年には再び蝦夷を討って、後方羊蹄(シリベシ)に至り、郡領を任命して帰った。 |
| 後方羊蹄は、北海道の羊蹄山(シリベシ)のことをいう。 |
| 斉明天皇4年(658年)4月-蝦夷に遠征する。 |
| 降伏した蝦夷の恩荷を渟代・津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応する。 |
| 同年、生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上した。 |
| 斉明天皇5年(659年)3月-蝦夷国を討つ。 |
| 阿倍は一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振 |
| 後方羊蹄に郡領を置く。 |
| 粛慎と戦って帰り、虜49人を献じる。 |
| 斉明天皇6年(660年)3月-粛慎を討つ。 |
| 比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。 |
| 比羅夫は粛慎を幣賄弁島まで追って彼らと戦い、能登馬身龍が戦死するもこれを破る。 |
| 斉明天皇6年(660年)5月-夷50人余りを献じる。 |
| また、粛慎の37人を饗応した。 |
白村江の戦い
| 662年に中大兄皇子(後の天智天皇)の命により、征新羅将軍として百済救援のために朝鮮半島に向かったが、翌663年新羅と唐の連合軍に大敗した(白村江の戦い)。 |
| この敗北により百済再興はならなかった。 |
系譜
| 父:不詳-一説では阿倍目または浄足。 |
| 次男:阿倍宿奈麻呂(?-720)。 |
| 男子:阿倍安麻呂。 |
関連項目
| 国鉄7100形蒸気機関車-名前が愛称として付された。 |
| 比羅夫丸-明治・大正期の青函連絡船の船名。 |
参考文献
| 坂本太郎「日本書紀と蝦夷」『日本古代史の基礎的研究』(上)東京大学出版会、1964年。 |
| 初出は古代史談話会『蝦夷』、1956年。 |
| 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年。 |
| 新野直吉『古代東北史の人々』吉川弘文館、1978年。 |
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