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つながりの強いひと
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洪茶丘
その後、祖国である高麗に対して激しく憎悪を燃やしたという。父の職を継いで管領帰附高麗軍民總管となった。このため、洪茶丘はクビライのもとで将軍となり... |
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金方慶
高麗王朝の将軍、都督使。字は本烈、諱は忠烈。安東(慶尚北道)の出身。元側に通じた高麗の武将であり、元寇時の高麗軍の指揮者である。 |
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世祖
世祖(セジョ、せいそ、永楽15年9月29日(1417年11月7日)-成化4年9月8日(1468年9月24日)、在位:1455年閏6月11日-1468年9月7日)は李氏朝鮮の第7代国王。... |
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少弐景資
少弐景資(しょうにかげすけ、寛元4年(1246年)-弘安8年(1285年)11月)は鎌倉時代中期の鎌倉幕府の御家人。少弐氏の一族で、少弐資能の三男。武藤景資とも... |
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クビライ
モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。在位は1260年5月5日-1294年2月18日。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文... |
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忠烈王
忠烈王(ちゅうれつおう、1236年-1308年)は第25代高麗王(在位1274年-1298年、復位1298年-1308年)。姓名は王椹、第24代高麗王元宗の子。諡は忠烈景孝大王、... |
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北条実政
鎌倉時代中・後期の北条氏の一門。父は金沢流の祖北条実時。母は執権北条政村の娘。金沢実政とも。 |
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竹崎季長
鎌倉時代中期における肥後国の御家人。通称は五郎。兵衛尉。法名は法喜。元寇における自身の戦いを描かせた『蒙古襲来絵詞』で知られる。姉に三井資長妻。 |
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河野通有
河野通有(こうのみちあり)は鎌倉時代中期の伊予国久米郡石井郷(現愛媛県松山市)の武将。鎌倉幕府御家人。河野氏当主。元寇の役で活躍した伊予水軍の将。... |
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少弐資能
少弐資能(しょうにすけよし、建久9年(1198年)-弘安4年閏7月13日(1281年8月28日))は鎌倉幕府の有力御家人。武藤資頼の子。武藤資能とも。子に少弐経資、... |
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平景隆
鎌倉時代中期の九州の武士。壱岐国の守護代。通称は内佐衛門。平経高、平景高とも。壱岐国の守護は少弐氏で、景隆はその家人であったと思われる。『八幡愚童... |
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菊池武房
鎌倉時代中期の武将。菊池氏の第10代当主。第9代当主・菊池隆泰の次男。蒙古襲来に際して一族を挙げて戦い、その活躍が『蒙古襲来絵詞』に描かれている。 |
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少弐経資
少弐経資(しょうにつねすけ、嘉禄元年(1225年)?-正応5年8月2日(1292年9月14日))は鎌倉時代中期の鎌倉幕府の御家人。少弐資能の子で、少弐景資の兄。少... |
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成宗
李氏朝鮮の第9代国王(在位:1469年-1494年)。姓は李、名は。諡は康靖仁文憲武欽聖恭孝大王。君号は者山君、のち乽山君。第7代国王世祖の第1王子李暲(徳宗... |
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北条時宗
鎌倉時代中期の武将・政治家。鎌倉幕府第8代執権。鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、モンゴル帝国の日本に対する圧力が高まるなかで執権... |
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後宇多天皇
鎌倉時代の第91代天皇(在位:文永11年1月26日(1274年3月6日)-弘安10年10月21日(1287年11月27日))。諱は世仁(よひと)。 |
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元宗
元宗(げんそう、1219年-1274年)は第24代高麗王(在位:1259年-1274年)。太子のときに高麗がモンゴルに服属したため、人質としてモンゴルに赴くことになる... |
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叡尊
鎌倉時代中期の真言律宗の僧。字は思円(しえん)。謚号は興正菩薩(こうしょうぼさつ)。興福寺の学僧慶玄の子で、大和国添上郡箕田里(現・大和郡山市)の... |
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宇多天皇
日本の第59代天皇(在位:仁和3年11月17日(887年12月5日)-寛平9年7月3日(897年8月4日))。諱は定省(さだみ)。 |
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プロフィール
阿塔海(Ataγai,アタカイ、アタガイ、アタハイ、1234年-1289年)は大元朝に仕えた政治家・軍人。
生涯
| チンギス・カンの時代に伝令使として活躍したスルドス部族のタガイ・バアトルの息子ブカ(卜花)の子。 |
| 父ブカの死後モンケの時代、1252年にクビライ率いる雲南遠征軍の副司令であったスベエデイの子ウリヤンカダイに従ってこの地域の征服に従事した。 |
| モンケの没後ウリヤンカダイの軍と共に続くクビライによる大元朝の対南宋戦でも丞相バヤンやウリヤンカダイの子アジュウ(阿朮)らに従い活躍した。 |
| 1272年(至元9年)に襄陽包囲線などで戦功をたて、このため翌1273年に鎮国上将軍、淮西行樞密院副使を授けられ、さらに中書右丞行枢密院事となる。 |
| 南宋遠征はさらに続行されて揚州を攻め、長江で張世傑および孫虎臣の南宋水軍を撃破した。 |
| 1275年(至元12正月)、南宋の首都臨安が降伏するとアタカイも臨安に入り、翌1276年に栄禄大夫平章政事行中書省事に任じられた。 |
| 1278年(至元15年)、上京してクビライに謁見し、左丞相となり臨安を管轄した。 |
弘安の役への出征
| 1281年(至元18年)、元寇の弘安の役では、高麗王国軍、遼陽行省方面の女直、屯田軍、蒙古軍などからなる東路軍との対として、旧南宋の諸軍からなる江南軍が総勢10万といわれる規模で組織され、江南軍総司令官であるとしてジャライル部族出身の阿剌罕(アラカン、アラクカン)が任命された(東路軍の編成は、文永の役と同じく都元帥が忻都(ヒンドゥ。 |
| 文永の役では直前に更迭され忽敦が派遣された。 |
| 右副元帥は洪茶丘、左副元帥は金方慶、蒙古人、女直人などの漢人、高麗人からなる4万。 |
| 江南軍の編成は、都元帥は阿剌罕、右副元帥がアタカイ、左副元帥は范文虎とする旧南宋兵10万から成り、兵船3,500艘であった。 |
| しかし出発直前になってアラカンが急病で倒れ程なく亡くなったため、アタカイが急遽、征東行省丞相、都元帥として総司令官を務めることになった。 |
| このため、江南軍は同年六月中旬に壱岐沖で東路軍と合流する手はずであったが、アラカンからアタカイへの引継ぎ作業などで手間取ったためか、江南軍の船団が慶元(寧波)を出発したのは大幅に遅れて6月18日(7月5日)であった。 |
| アタカイのもとには、事前に鷹島への上陸が有利であるという情報があったため、東路軍へ鷹島沖での合流を促す先遣隊を派遣し、7月上旬に平戸島沖に東路軍と江南軍は合流し、鷹島への上陸を敢行したものの、松浦党や近海から加勢した島津長久らの軍勢による迎撃された。 |
| 海上の船団に松浦党はこれに対し果敢に攻撃を仕掛けたため、東路軍は兵船同士を鎖や板を渡し、兵員を移動しやすくして襲撃への対処を行った。 |
| あわせて東路・江南両軍は幾度かの鷹島への上陸作戦を行ったが、ことごとく失敗した。 |
| 1281年8月15日(至元18年・弘安4年7月30日)夜半、暴風雨に見回れた。 |
| 翌16日(閏月8月1日)にかけて京都でも暴風雨があったため、時期的に台風であったとも考えられている。 |
| この暴風によって東路・江南両軍の艦船は大部分が転覆座礁するなどの甚大な被害に見回れ、東路軍の忻都、洪茶丘、金方慶も江南軍のアタカイ、范文虎らの指揮官たちは軍の撤退を余儀無くされた。 |
| 海上は五日間荒れ、20日から凪ぎはじめると日本の武士団による掃討戦がはじまった。 |
| 特にアタカイが率いる江南軍の被害が著しく、『元史』日本伝に「十万の衆、還ることの得る者、三人のみ」とやや誇張的な表現があるものの、江南軍の兵員の大半は溺死するか日本側に掃討され、あるいは捕虜となった。 |
晩年
| アタカイら指揮官たちは無事帰還出来たものの、この弘安の役の失敗のため一時左遷された。 |
| 1287年(至元24年)に東方三王家の首班であるテムゲ・オッチギン家の当主ナヤンがクビライに対し叛乱したため、アタカイはクビライの親征に扈従してナヤンの軍を破り、この動きに呼応して東進して来たカイドゥ軍へ牽制にクビライがカラコルムへ転戦した際には大都に留まった。 |
| 1289年に没した。 |
| 死後に武敏と諡され、順昌王に追封された。 |
| 『元史』巻百二十九に伝がある。 |
| (『新元史』巻百三十二)。 |
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1252年
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クビライ率いる雲南遠征軍の副司令であったス... |
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1273年
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鎮国上将軍、 淮西行樞密院副使を授けられ、... |
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