| 平沼内閣の突然の崩壊で、それまで首相選びの任に当たってきた元老・西園寺公望も「自分には意見がない」と言い出す有様であった。 |
| 近衛文麿や広田弘毅の再登板説が出たり、宇垣一成陸軍大将、勝田主計元蔵相の名前が挙がったが、なかなかまとまらない。 |
| そんなとき、陸軍が阿部を推し、皆が飛びついた。 |
| 阿部は陸軍大学校では成績優秀の「恩賜の軍刀」組。 |
| 日露戦争、シベリア出兵で出征はしたものの、実戦には参加せず、金鵄勲章を持たぬ唯一の大将であり鳥海靖編『歴代内閣・首相事典』吉川弘文館2009年12月20日170頁以下。 |
| なお、この後終戦までに古荘幹郎・多田駿・安藤利吉の三人が金鵄勲章を受けずに大将になっている。 |
| 、「戦わぬ将軍」のあだ名で有名だった。 |
| その代わり、軍務局長、陸軍次官の職を無難にこなし、事務屋として力量を発揮した。 |
| また陸軍次官の時、宇垣一成陸相が病気入院し、その代理として陸軍大臣を代行した。 |
| 統制派、皇道派のどちらにも属さず、無色であることも幸いした。 |
| 昭和天皇に軍事学を進講したことがあり、天皇も阿部の緻密な頭脳と円満な人柄を評価していた。 |
| 西園寺に代わって天皇側近として台頭してきた木戸幸一とは姻戚関係にあった。 |
| 海軍のリベラル派提督・井上成美は義弟という間柄。 |
| 天皇も阿部なら陸軍の派閥争いを収め、海軍とも気脈を通ずることが出来ると見ていた。 |
| しかし、首相というポストは阿部には荷が重すぎたようだ。 |
| 天皇からの大命を拝命した帰り、湯浅倉平内大臣の所へ顔を出したが、顔中に「朱のこぶ」ができたようだった。 |
| 湯浅は「首相の大命を受けたら、鼻で3斗の酢を飲むほどの苦痛」を覚悟すべきだと、西園寺がかねがね言っていたことを思い出し、まさにその通りの顔つきだと思った。 |
| このとき、阿部は天皇から政策や人事で厳しい注文を受け、緊張の極みにあったのだ。 |
| 日独伊三国同盟の締結を棚上げし、日中戦争の処理に全力を挙げる姿勢を見せるなど、陸軍部内から支持を失ったが、阿部も出だしは良識派らしかった。 |
| しかし、中華民国との和平も、米英両国との関係改善も進まない。 |
| 1939年(昭和14年)10月18日、国家総動員法第19条に基づいた価格等統制令や、同時に地代家賃統制令、賃金臨時措置令、会社給与臨時措置令などを公布。 |
| さらに外務省通商局、商工省貿易局、大蔵省関税局などの反対を押し切って「貿易省」を新設して、外務省から経済外交を取り上げる行政改革に手をつけ、9月26日には閣議決定にまでこぎつけたが、外務省キャリアのほぼ全員が辞表を出すという激しい抵抗にあって失敗。 |
| しかもこの年は凶作と流通統制の影響でコメの流通が滞りがちとなり、コメの出回りを促進しようと、米価を引き上げたのが裏目に出て、物価の高騰、物資不足を招いた。 |
| あまりの不人気に、陸軍も組閣の4ヶ月後に倒閣に動く有様だった。 |
| 国会でも退陣を勧告する騒ぎとなり、阿部も一時は衆議院の解散を考えたが、衆議院解散による反軍感情が沸騰することを怖れた陸軍が支持せず、畑俊六陸相、吉田善吾海相に反対され内閣総辞職となった。 |
| 阿部は総辞職の際に原田熊雄に「今日のように、まるで二つの国、陸軍という国とそれ以外の国とがあるようなことでは、到底政治がうまくいくわけはない。 |
| 自分も陸軍出身で前々から気になってはいたがこれほど深刻とは思っていなかった。 |
| 認識不足を恥じざるをえない」と語っている勝田龍夫『重臣たちの昭和史』下巻P132文春文庫1984年文庫初版、1981年初出。 |
| 著者は原田の娘婿で阿部が組閣する際に首相候補の一人であった勝田主計の子息。 |
| その後は重臣として活動したが、若槻礼次郎・岡田啓介らのいわゆる重臣グループとは疎遠であった。 |
| 終戦時は最後の朝鮮総督であり、日本統治終了以後の朝鮮半島が無政府状態に陥るのを恐れ、民衆保護のために朝鮮軍司令官上月良夫とともにに朝鮮へ自治権を与え、朝鮮人民共和国を成立させた。 |
| 早々に米軍に護送されて引き揚げたが、邦人の保護より自分の生命、財産を守ることを優先したといわれたのは、阿部にはやや酷な批判だった。 |
| しかし、宇垣一成陸相の下で次官を務め、「宇垣の寵児」といわれながら、宇垣が事実上失脚すると離反した。 |
| その後は東條英機と密着し、東條内閣の実現に一役買った。 |
| 機を見るに敏なところがあったものだから、こうした批判も出たのだろう。 |
| 「野戦の将軍ではなくて処世の将軍」との厳しい評が生まれるのも故なしとしない。 |
| 軍令・軍政畑の要職を歴任したことにも見られるように、軍人への道よりも帝大を出て官僚への道を進む方が向いていたとも批評されている。 |
| 戦後は、首相在任中を含め、陸軍の暴走を止められなかった自己を責め続けたといわれており占領が終わった直後に没した。 |