| 後に劉備は荊州の劉表を頼ったとき、陳登を低く評価する許汜に対し、陳登を「文武両道で、勇気と志を持っている」と賞賛したという。 |
| 陳登もまた劉備を「傑出した雄姿を持ち、王覇の才略を具えている」と敬意を示した(「陳矯伝」)。 |
| 後に徐州が呂布によって奪取されると呂布に仕えた。 |
| だが、陳珪と陳登はひそかに呂布を嫌っていた。 |
| 寿春の袁術が呂布と縁組を結ぶために韓胤を使者として送ってきたとき、陳珪が当初は乗り気であった呂布を説得し、袁術と絶縁させ韓胤を捕らえて曹操のもとへ送り届け斬らせた。 |
| さらに陳登を使者として送り曹操と結ぶよう勧めた。 |
| 呂布は乗り気ではなかったが、曹操が朝廷に働きかけ呂布を左将軍に任じさせると、呂布は喜んで使者の派遣に同意した。 |
| 陳登は曹操のもとへ赴いた時に「呂布を早く滅ぼすべき」と進言した。 |
| これを聞いた曹操は陳珪父子を頼りにするように思うようになり、陳登を広陵太守に任命し、ひそかに徐州の安定を委ねた。 |
| 呂布は自身が徐州の牧に任じられることを期待していたが、陳登はそれを果たさずに、自分だけが官職を得て戻ってきたことを不審に思った。 |
| 陳登は呂布を鷹になぞらえ誉めそやし、気持ちをほぐれさせた。 |
| 呂布が袁術の将の張勲が率いる大軍に攻められた時は、袁術軍の内部分裂の可能性を予見し、それを陳珪に伝えた。 |
| 陳珪はそれを受けて呂布の前で、袁術の同盟軍であった楊奉・韓暹を味方に引き込む策略を提案した。 |
| 呂布はこの策略を実行し、楊奉・韓暹を味方に引き込み袁術との戦いに大勝した。 |
| 陳登の統治の下、広陵の治安は安定し、陳登は人々に畏怖・敬愛された。 |
| 陳矯を功曹に取り立てた(「陳矯伝」)。 |
| 当時、陳登は傲慢で自惚れていると思われることが多かったようで、陳矯を許に使者に送ったとき、都での評価を観察して教えてくれるよう依頼したという(「陳矯伝」)。 |
| 曹操が呂布を攻めて下邳まで進軍してきた時、陳登は曹操に帰順して呂布討伐の先駆けを務めた。 |
| 呂布が籠る下邳城には陳登の弟3人がおり、呂布は彼等を人質として利用し陳登に圧力をかけたが、陳登は屈することなく、呂布への包囲を次第に狭めていった。 |
| まもなく城中から裏切り者が出て、陳登の弟らを連れて陳登の元に脱出してきた。 |
| 呂布が滅亡すると、その功績により伏波将軍となった。 |
| 呂布討伐後、陳登は長江・淮水流域で非常に人望が厚かったので、江南を併合する野望を抱くようになったという。 |
| 孫策とは呂布が健在であった時代から敵対関係であり、陳登の一族の陳瑀が安東将軍・呉郡太守となり孫策と戦ったが敗れている(「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』)。 |
| まず、孫策が西上した隙を狙って、かつて呉郡の有力者であった厳白虎の残党を扇動して孫策に叛かせようとした(「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』)。 |
| 反乱を鎮めた孫策は報復として徐州に攻め込んできたが、陳登は匡奇に籠り、10倍以上の敵を計略を用いて大いに撃退した。 |
| 再び孫権(「陳矯伝」)が徐州に攻め込んできた時は、陳登は援軍要請の使者として陳矯を曹操の下へ派遣した。 |
| 曹操の援軍が来て孫権の軍が撤退すると、陳登は追撃して、伏兵を多数設けて、孫権の軍を大いに破った。 |
| その後、東城の太守に転任したが、広陵の民衆が陳登を慕いついていこうとしたため、陳登はこれを立ち戻らせたという。 |
| その後、39歳で死去した。 |
| 204年に夏侯惇が伏波将軍を拝命しているため、陳登の没年はそれ以前の可能性が高い。 |
| 時期は不明だが、まだ広陵太守であったころ、陳登は生の魚を食し、それゆえ胃に寄生虫がわいてしまったことがあった。 |
| このときは華佗の投薬によって一旦は治癒したが、華佗は、3年後にこの病気が再発することを予言し、良い医者を側におくよう忠告した。 |
| それから3年後、果たして病気は再発したが、そのときは華佗は不在で、陳登は病死した(「方技伝」)。 |
| 曹操は陳登が健在ならば、孫権に長江の北まで支配させてしまうことはなかったであろうと残念がったという。 |
| 後に、魏帝国が成立すると、文帝(曹丕)は陳登の功績を思い起こし、遺子の陳粛を郎中に取り立てたという。 |
| 小説『三国志演義』では、陶謙の配下の一人として劉備を後継に迎えるときに尽力し、以後も父とともに劉備に忠義を尽くし続け、劉備の敵である袁術や呂布を徐州から排除するために策略をめぐらす。 |
| 最後は曹操の任命した車冑の殺害にも協力するが、曹操が劉備らを徐州から駆逐すると降伏している。 |
| その後、華佗の患者の一人として名のみ登場する。 |