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その後は同郷で曹操の片腕として活躍していた荀彧の娘婿となるなど、政権内での地歩を固めていった。
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214年、御史中丞に任ぜられた。
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陳羣は廷にあっては好悪によって判断する事はなく、常に名誉と道義を重んじ、道義にはずれた事を人に押し付けなかったとされる。
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曹丕がまだ太子だったとき、彼は陳羣に対して深い敬意をもって接し、友人に対する儀礼をもって処遇した。
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陳羣は文書の機密を扱ったり、法の整備に力を発揮し、曹操存命の間は荀彧や鍾繇などと共に傑出した働きをした。
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肉刑から農政、身分制、徴兵、裁判までを取り扱った。
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不審な挙動に対しては容赦なく弾劾を行った。
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陳羣は能臣郭嘉に対しても、その不届きを法に照らし、罰しようとした。
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220年、曹丕(魏の文帝)が皇帝に即位して魏帝国が成立し、陳羣はその成立に際立って尽力し、その功績から曹丕にも重用された。
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ちなみに、陳羣は曹操にも帝位に就くように提言していたとされ、荀彧とは違い、むしろ漢帝国を滅ぼして魏を興すことに尽くしていたようである。
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同年、九品官人法を制定した。
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この制度は、当時採用官や地元の豪族の恣意性が強かった人材登用を、法律として再度整備してそうした余地が入り込まないようにする狙いをもって、同時にまもなく起こる後漢から魏への易姓革命に備え、後漢に仕える官僚を魏に再任用する際の人材のふるい分けを狙う制度であったと考えられている。
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宮崎市定著『九品官人法の研究:科擧前史』(東洋史研究会、1956)第二章より。
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漢魏の易姓革命に当たって、後漢の官僚の反発を避けるために彼らを魏廷に受け入れる必要がある。
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ところが、魏の官僚の登用は毛玠らによって厳選されていたものの、一方の後漢は陳羣が「天朝(後漢)の選用、人才を尽さず」(『通典』巻14)と評価される状況にあり、魏の尺度でもう一度試験を行うべきであると考えられたと宮崎は指摘する。
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いま一つの理由として、魏に対して叛意を持つ後漢の官僚もそのまま受け入れにくいことを挙げている(218年には耿紀による反乱が起きるなど、反魏意識を持つ後漢官僚の存在は簡単に想像された)。
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この制度は隋代までの中国における人材登用の基本制度となったため、中国の政史を考える際、陳羣の事績を見逃すことはできない。
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曹丕は、太子時代から陳羣と仲が良かったため、陳羣を厚く信頼しており、官職は尚書令に上り、さらに鎮軍
大将軍に任ぜられた。
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孫権への出兵に際しては、水軍を指揮した。
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226年の曹丕の死に際しては、曹真や
司馬懿らと共に四人の重臣(「四友」ともされる)として後事を託された。
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曹叡(明帝)の時代にも重職を担い、司空に任ぜられた。
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中枢での権力も大きなものとなり、上奏文を際立って多く書いたとされる。
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238年に死去した。
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235年に逝ったとする説もある。