| 同年末に帰郷し、劉東軒と共に中国共産党祁陽県委員会を組織し、軍事委員兼青年委員に任じられ、「年関暴動」を組織した。 |
| 1929年、福建省に移り、中国共産党福建省委員会秘書長、書記となる。 |
| その後、福建省党委組織部長、漳州党特別委員会書記、福州中心市党委書記などを歴任し、閩南工農紅軍遊撃隊を創設した。 |
| 1933年5月、上海で逮捕、無期徒刑(無期懲役刑)に処せられ、南京中央監獄に収監された。 |
| 1937年、第二次国共合作が成立すると、周恩来・葉剣英により救出された。 |
| 出獄後、湖北省党委常務委員兼宣伝部長、鄂豫挺進支隊政治委員代理を務めた。 |
| 1940年、延安に移り、党中央軍事委員会秘書長兼政治部秘書長となる。 |
| 後に政治宣伝部長も兼任した。 |
| 1945年、第7回党大会に出席。 |
| 国共内戦時は、遼寧省、遼吉省、遼北省などの党委書記を経て、東北野戦軍(のちの第4野戦軍)政治部副主任を務めた。 |
| 1949年からは党中南局常務委員、中南軍区政治部副主任、主任を歴任し、中華人民共和国建国後の1950年、広西省党委員会書記代理となる。 |
| 1951年11月には広州に移り、1952年1月、広東省人民政府委員となる。 |
| 1953年、党華南分局書記代理兼広東省人民政府主席代理に就任。 |
| 1955年1月8日、広東省省長に任命され、同年7月1日、広東省党委第一書記となる(1965年まで在任)。 |
| また、広州軍区第一政治委員、軍区党委第一書記を兼任した。 |
| 1956年9月の第8回党大会において中央委員に選出される。 |
| 1960年12月1日からは党中央中南局第一書記も兼任した(1965年まで)。 |
| 1964年2月、陶鋳が執筆した「人民公社は前進する」と題する論文が『人民日報』に掲載されると、毛沢東の目に留まり、中央に抜擢された産経新聞「毛沢東秘録」取材班『毛沢東秘録』上(産経新聞社、1999年)、222ページ。 |
| 1965年1月4日、国務院副総理に就任。 |
| 1966年6月4日、党中央書記処常務書記兼中央宣伝部長に任命される。 |
| 同年8月の第8期11中全会において党中央政治局常務委員に選出された。 |
| 政治局常務委員会内での序列は毛沢東、林彪、周恩来に次ぐ第4位となった。 |
| 1966年に毛沢東が文化大革命を発動したとき、陶鋳は中央文革小組の宣伝担当顧問に任命され、文革の推進役としての役割を毛沢東から期待されていた。 |
| 陶鋳は毛沢東の指示に従い、文革を積極的に推進しようとしたが、文革の目的が「劉少奇・鄧小平の打倒」であることについては理解しかねていた『毛沢東秘録』上、221-222ページ。 |
| その後まもなく、陶鋳は毛沢東の寵愛を失った高 |
| そこで提示した陶鋳、李富春の毛沢東への報告が、毛沢東を激怒させたのは間違いなかった、とある。 |
| 林彪は陶鋳が、第4野戦軍以来の部下(中国語で「自己人」)高 |
| また、毛沢東は陶鋳を批判する必要があると決心したとき、周恩来は晩節をまっとうする心理状態だったこともあり高 |
| ...他却没有对陶铸援之以手,站出来为他缓颊,反而硬着头皮充当了批陶会议的主持人,让陶铸为自己背黑锅。 |
| 1967年1月4日、江青は陶鋳を「ブルジョア反動路線の新たな代表」と断じ、中央文革小組の組長である陳伯達は「陶鋳は中国最大の保皇派である」と宣言して「打倒陶鋳」を呼びかけた『毛沢東秘録』上、220ページ。 |
| 紅衛兵ら反動派によって吊るし上げられた陶鋳は自由を奪われ、1月10日、全職務を解任されて失脚した。 |
| 1967年9月、姚文元は『人民日報』で、「陶鋳の2冊の本を評す」(「」)を発表し、陶鋳を「フルシチョフ式的野心家」、「叛徒」、「逮捕を免れている右派」、「修正主義者」、「反革命の裏切り者」とし、陶鋳著の『理想・情操・精神生活』、『思想・感情・文采』の二冊は「資産階級の反革命派的『理想』であり、裏切り者の『精神生活』であり、無産階級に対して恨み骨髄に徹した感情が充満している」と宣言した。 |
| 失脚後、安徽省合肥市に移された陶鋳は、1969年11月30日、胆癌により死去した。 |
| 1978年12月、第11期3中全会で陶鋳の名誉は回復され、12月24日、人民大会堂西大庁で彭徳懐と陶鋳の追悼会が挙行された。 |
| 陶鋳には妻、曾志と一女、陶斯亮があった。 |