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つながりの強いひと
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普照国師
承応3年(1654)に渡来した中国僧で、禅宗の一派である黄檗宗を日本に伝えたことで知られます。長崎をはじめ各地の寺院に住した後、寛文元年(1661)に将軍家綱か... |
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費隠通容
中国明末清初の臨済宗天童派の禅僧。隠元隆琦の師として知られる。道号は費隠、法諱を通容。俗姓は何氏。福建省福州府福清県の人。 |
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即非如一
江戸時代前期中国の明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。福建省福州府福清県の出身。俗姓は林氏。字は即非。 |
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密雲円悟
中国明末の臨済宗天童派の禅僧。費隠通容の師であり隠元隆琦の師翁にあたる。道号は密雲、法諱を円悟。俗姓は蔣氏。江蘇省常州府宜興県の人。 |
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国師
高僧に対して皇帝(朝廷)から贈られる諡号の1つであり、特に皇帝の師への尊称である。僧侶に贈られる諡号としては、他にも大師号、禅師号などがある。中国で... |
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龍渓性潜
江戸時代前期の臨済宗黄檗派の僧。俗姓は奥村氏。号は如常老人。諡号は大宗正統禅師。京都の出身。 |
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隠元禅師
隠元禅師年譜 現代語訳 〔南源性派/編〕 木村得玄/訳 出版社名 : 春秋社 出版年月 : 2002年9月 ISBNコード : 978-4-393-17702-0
( 4-393-17702... |
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日乾
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての日蓮宗の僧。若狭国の出身。字は孝順。寂照院と号した。1569年(永禄12年)若狭国長源寺の日欽に師事して出家、2年後... |
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木庵性トウ
江戸時代前期に中国の明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。俗姓は呉氏。福建省泉州府晋江県の出身。勅諡号は慧明国師。 |
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徳川家綱
徳川家綱(とくがわいえつな)は江戸幕府の第4代将軍(在職:慶安4年(1651年)-延宝8年(1680年))である。父は第3代将軍徳川家光、母は側室のお楽の方(宝... |
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宮尾すすむ
日本のタレント。本名は山口進(やまぐちすすむ)。 |
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白隠慧鶴
臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧である。諡は神機独妙禅師、正宗国師。駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれた白隠は... |
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文彭
中国明代の書家、画家、篆刻家である。明代四大家のひとりである文徴明の長子であり、文嘉は弟にあたる。特に篆刻に優れた業績を遺した。江蘇蘇州の人。字は... |
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高泉性敦
江戸時代前期に中国の明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。福建省福州府福清県東閣の出身。俗姓は林氏。号が高泉で、法諱が性敦である。また、法諱は... |
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石濤
清初に活躍した遺民画人である。靖江王府(今の広西チワン族自治区桂林市)に靖江王家の末裔として生まれる。俗称を朱若極、石濤は字であり後に道号とした。... |
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売茶翁
江戸時代の黄檗宗の僧。煎茶の中興の祖。本名は柴山元昭、幼名は菊泉。法名は月海で、還俗後は高遊外(こうゆうがい)とも称した。肥前蓮池道畹(佐賀県佐賀... |
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智永
中国の陳より隋の時代にかけて活躍した僧であり、書家である。会稽(浙江省紹興県)の人で、俗姓は王氏で、名は法極、永禅師と号した。書聖王羲之の7世の孫に... |
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懐素
懐素(かいそ、開元13年(725年)-貞元元年(785年))は中国・唐代の書家、僧。字は蔵真(ぞうしん)、俗姓は銭(せん)、零陵の人で、詩人として有名な銭起... |
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釈迦如来
仏教の開祖釈迦〔姓名:瞿曇悉達多(くどんしっだった、クドンシッタルタ)梵語:(ガウタマ・シッダールタ)パーリ語:(ゴータマ・シッダッタ)〕を仏(仏... |
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松永尺五
松永尺五(まつながしゃくご(せきご)、文禄元年(1592年)-明暦3年6月2日(1657年7月12日))は江戸時代の儒学者。京都出身。松永貞徳の子。名は昌三、字は... |
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プロフィール
- 隠元隆きとは
- 生い立ち~渡来前
- 渡来以降
- 黄檗宗開教以降
- 語録・著作
- 弟子
- 隠元豆
- 関連サイト
隠元隆琦(いんげんりゅうき、特諡として大光 普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師、万暦20年・文禄元年11月4日(1592年12月7日)-寛文13年4月3日(1673年5月19日))は、中国明末清初の禅宗の僧で、福建省福州福清県の生まれで俗姓は林である。独特の威儀を持ち、念仏禅を特徴とする明朝禅を日本に伝え、やや先に渡来した 道者超元(?-1660年,1651年来朝、1658年帰国)と共に、当時の禅宗界に多大な影響を与え、臨済・曹洞二宗の復興運動にも大きな影響を与えた。また日本における煎茶道の開祖ともされる。
生い立ち~渡来前
| 福建省福州府福清県万安郷霊得里東林に生まれる。 |
| 俗名は、林曽炳。 |
| 10歳で仏教に発心する(16歳という説もあり)が、出家修道は母に許されなかった。 |
| 21歳の時に消息不明の父を浙江に捜したが果たせなかった。 |
| 23歳の時、普陀山(浙江省)の潮音洞主のもとに参じ、在俗信者でありながら一年ほど茶頭として奉仕した。 |
| 29歳で、生地である福清の古刹で、黄檗希運も住した黄檗山萬福寺の鑑源興寿の下で得度した。 |
| 33歳の時、金粟山広慧寺で密雲円悟に参禅し、密雲が萬福寺に晋山するに際して、隠元も随行した。 |
| 35歳で、大悟した。 |
| 38歳の時、密雲は弟子の費隠通容に萬福寺を継席して退山したが、隠元はそのまま萬福寺に残り、45歳で費隠に嗣法した。 |
| その後隠元は萬福寺を出、獅子巌で修行していたが、費隠が退席した後の黄檗山の住持に招請されることとなり、明崇禎10年(1637年)に晋山した。 |
| その後、退席したが、明末清初の動乱が福建省にも及ぶ中、順治3年(1646年)に再度晋山した。 |
渡来以降
| 江戸初期、長崎の唐人寺であった崇福寺の住持に空席が生じたことから、先に渡日していた興福寺住持の逸然性融が、隠元を日本に招請した。 |
| 当初、隠元は弟子の也嬾性圭を派遣したが、途中船が座礁して客死してしまう。 |
| やむなく隠元自ら、良静・良徤・独痴・大眉・独言・良演・惟一・無上・南源・独吼ら二十人ほどの弟子を率いて、鄭成功が仕立てた船に乗った。 |
| 長崎来港は承応3年(1654年)7月5日夜のことである。 |
| 月洲筆「普照国師来朝之図」にこのときの模様が残されている。 |
| 隠元に随行した弟子のうち、良静ら十弟子は翌年に帰国したが、十弟子が日本に留まり大眉・南源・独吼は日本に帰化した。 |
| 渡日当時、中国は明末清初の騒乱期であったことから、この騒乱を避けて来日したとされているが、残されている書簡や記録等からは、そのように判断する根拠は乏しい。 |
| 隠元が入った興福寺には、明禅の新風と隠元の高徳を慕う具眼の僧や学者たちが雲集し、僧俗数千とも謂われる活況を呈した。 |
| 明暦元年(1655年)、妙心寺元住持の龍渓性潜の懇請により、摂津嶋上(現在の大阪府高槻市)の普門寺に晋山するが、隠元の影響力を恐れた幕府によって、寺外に出る事を禁じられ、また寺内の会衆も200人以内に制限された。 |
| 隠元の渡日は、当初3年間の約束であり、本国からの再三の帰国要請もあって帰国を決意するが、龍渓らが引き止め工作に奔走し、万治元年(1658年)には、将軍徳川家綱との会見に成功した。 |
| その結果、万治3年(1660年)、山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、翌年、新寺を開創し、旧を忘れないという意味を込め、故郷の中国福清と同名の黄檗山萬福寺と名付けた。 |
| 寛文3年(1663年)には、完成したばかりの法堂で祝国開堂を行い、民衆に対しては、日本で初めての授戒「黄檗三壇戒会」を厳修した。 |
| 以後、中国福清の黄檗山萬福寺は「古黄檗」と呼ばれる。 |
黄檗宗開教以降
| これによって、隠元は日本禅界の一派の開祖となったが、当初から黄檗宗と名乗っていたわけではない。 |
| 本人は歴とした臨済宗を嗣法している自負があったので、臨済正宗を名乗っている。 |
| もっとも、宗風や叢林としての規矩清規は当時の中国・明時代の臨済禅に倣っていたことから、既に日本に根付いていた臨済宗とは趣を異にし、その違いにより、自ずから一派を形成する方向に向かったものである。 |
| 隠元の『黄檗清規』は、乱れを生じていた当時の禅宗各派の宗統・規矩の更正に大きな影響を与え、特に卍山道白らによる曹洞宗の宗門改革では重要な手本とされた。 |
| 隠元には、後水尾法皇を始めとする皇族、幕府要人を始めとする各地の大名、多くの商人たちが競って帰依した。 |
| 萬福寺の住職の地位にあったのは3年間で、寛文4年(1664年)9月に後席は弟子の木庵に移譲し、松隠堂に退いた。 |
| 松隠堂に退隠後、82歳を迎えた寛文13年(1673年)正月、隠元は死を予知し身辺を整理し始め、3月になり、体調がますます衰え、4月2日には後水尾法皇から「大光普照国師」号が特諡された。 |
| 翌3日に遺偈を認めて示寂。 |
| 能書家としても知られ、木庵性瑫、即非如一とともに黄檗の三筆と称される。 |
語録・著作
| 『隠元禅師語録』16巻。 |
| 『普照国師広録』30巻。 |
| 『黄檗隠元禅師雲涛集』1巻。 |
| 『弘戒法儀』1巻。 |
| 『黄檗山寺志』1巻。 |
隠元豆
| 隠元が来日した際に日本に持ち込んだため、その名が付いたとされる「インゲンマメ」は、中南米原産のマメ科の作物。 |
| ヨーロッパに伝わった後、ユーラシア大陸を横断して中国から日本に伝来した。 |
| 但し、隠元が持ち込んだのは、現在の「フジマメ(藤豆)」だという説もあり、関西ではフジマメのことを「インゲンマメ」と呼ぶ。 |
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1646年
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再度晋山した |
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1658年
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将軍徳川家綱との会見に成功した |
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