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允恭天皇
第19代天皇(在位:允恭天皇元年(412年)12月-同42年(453年)1月14日)。雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)、男浅津間若子宿禰王(... |
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天武天皇
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神武天皇
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5世紀に、南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」などに冊封された倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武をいう。 |
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古墳時代の第25代天皇(在位:仁賢天皇11年(498年)12月-武烈天皇8年12月8日(507年1月7日))。名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)・小泊... |
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ワカタケル大王
ワカタケル大王とその時代 埼玉稲荷山古墳 小川 良祐編 狩野 久編 吉村 武彦編 税込価格:(本体 : ) bk1ポイント倶楽部 : 19 ポイント(1%進呈)... |
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眉輪王
記紀に伝えられる5世紀頃の皇族(王族)。目弱王とも。父は大草香皇子(おおくさかのみこ。仁徳天皇の皇子)、母は中蒂姫命(なかしひめのみこと。履中天皇の... |
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清寧天皇
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仲哀天皇
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仁賢天皇
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顕宗天皇
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応神天皇
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百済
古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系扶余族による国家(346年-660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅... |
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プロフィール
- 雄略天皇とは
- 系譜
- 皇居
- 略歴
- 大悪天皇の記述
- 陵墓・霊廟
- その他
- 御製歌
- 在位年と西暦との対照表
雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、 允恭天皇7年(418年)12月- 雄略天皇23年8月7日(479年9月8日))は、第21代天皇(在位: 安康天皇3年11月13日(456年12月25日)- 雄略天皇23年8月7日(479年9月8日))。大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇、有徳天皇とも。また『宋書』、『梁書』に記される「 倭の五王」中の倭王武に比定される。その倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、熊本県玉名郡和水町の江田 ...
皇居
| 都は、近畿の泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)。 |
| 稲荷山古墳出土金象嵌鉄剣銘に見える「斯鬼宮(しきのみや・磯城宮)」も朝倉宮を指すと言われる(別に河内の志紀(大阪府八尾市)とする説もある)。 |
| 伝承地は奈良県桜井市黒崎(一説に岩坂)だが、1984年、同市脇本にある脇本遺跡から、5世紀後半のものと推定される掘立柱穴が発見され、朝倉宮の跡とされ話題を呼んだ。 |
| これ以降一定期間、初瀬に皇居があったと唱える人もいる。 |
| なお、『日本霊異記』によれば、磐余宮(いわれのみや)にもいたという。 |
略歴
| 記紀によれば、安康天皇3年8月9日(456年9月24日)、安康天皇が幼年の眉輪王(まよわのおおきみ、古事記では7歳とあるが誤記と思われる)により暗殺されたとする。 |
| 安康天皇が、仁徳天皇の子である大草香皇子に、妹の草香幡梭姫皇女を同母弟である即位前の雄略天皇の妃に差し出すよう命令した(大草香皇子と草香幡梭姫皇女は父系の叔父と叔母)際に、仲介役の坂本臣等の祖である根臣が、大草香皇子の「お受けする」との返答に付けた押木玉鬘(おしきのたまかつら:金銅冠とも)を横取りするために、天皇に「大草香皇子は拒否した」と偽りの讒言をする。 |
| 安康天皇は大草香皇子を殺害し、その妃である中蒂姫命(長田大郎女)を奪って自分の皇后とした。 |
| 中蒂姫は大草香皇子との子である眉輪王を連れており、これが眉輪王に安康天皇が殺害される直接の原因となった。 |
| 暗殺の事実を知った大泊瀬皇子は兄たちを疑い、まず八釣白彦皇子を斬り殺し、次いで坂合黒彦皇子と眉輪王をも殺そうとした。 |
| この2人は葛城氏の円大臣(つぶらのおおおみ)宅に逃げ込んだが、大泊瀬皇子は3人共に焼き殺してしまう。 |
| さらに、従兄弟にあたる市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ、仁賢天皇・顕宗天皇の父)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺し、政敵を一掃して、11月にヤマト王権の大王の座に就いた。 |
| 即位後、草香幡梭姫皇女に求婚する道の途中で、志貴県主(参考:志貴県主神社)の館が鰹木を上げて皇居に似ていると何癖をつけ、布を掛けた白犬を手に入れる。 |
| それを婚礼のみやげ物にして、草香幡梭姫皇女を皇后にする。 |
| 平群真鳥を大臣に、大伴室屋と物部目を大連に任じて、軍事力で専制王権を確立した大泊瀬幼武大王(雄略天皇)の次の狙いは、連合的に結び付いていた地域国家群をヤマト王権に臣従させることであった。 |
| 特に最大の地域政権吉備に対して反乱鎮圧の名目で屈服を迫った(''吉備氏の乱'')。 |
| 具体的には、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや・463年)や吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ・463年)の「反乱」を討伐して吉備政権の弱体化を進め、さらに雄略天皇の死後には星川皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴室屋らが鎮圧して(479年)、ヤマト王権の優位を決定的にした。 |
| 『日本書紀』には他に、播磨の文石小麻呂(あやしのおまろ・469年)や伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ・474年)を討伐した記事がある。 |
| 対外的には、雄略天皇8年(464年)2月に日本府軍が高句麗を破り9年5月には新羅に攻め込んだが、将軍の紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)が戦死してしまい敗走したと言う。 |
| (『三国史記』新羅本紀によれば倭人が462年5月に新羅の活開城を攻め落とし、463年2月にも侵入したが、最終的に新羅が打ち破ったと記載されている)。 |
| 20年(476年)に高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌21年(477年)、雄略大王は百済に任那を与えて復興したという(『三国史記』高句麗本紀・百済本紀によれば、475年9月に高句麗に都を攻め落とされ王は殺され、同年熊津に遷都している)。 |
| この他、呉国(宋)から手工業者・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、また、分散していた秦民(秦氏の民)の統率を強化して養蚕業を奨励したことも知られる。 |
| 479年4月、百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子未多王に筑紫の兵500をつけて帰国させ、東城王として即位させた。 |
| 兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。 |
| 雄略22年1月1日(478年2月18日)、白髪皇子(後の清寧天皇)を皇太子とし、翌23年(479年)8月、大王は病気のため崩御した。 |
| しかし梁書によると、梁の武帝は502年、雄略天皇に比定される倭王武を征東将軍に進号している。 |
| この解釈としては、実際の雄略天皇の没年は記紀による年代よりも後であったとする見解と、雄略帝=倭王武の比定が誤っているとする見解がある。 |
| 雄略天皇の血筋は男系では途切れたものの、皇女の春日大娘皇女が仁賢天皇の皇后となり、その娘の手白香皇女が継体天皇の皇后となり欽明天皇を産んでいることから、雄略天皇の血筋は女系を通じてではあるが現在の皇室まで続いている。 |
大悪天皇の記述
| 即位後も人を処刑することが多かったため、後に大悪天皇と誹謗される原因となっているが、大悪天皇の記述は武烈天皇にも見られることから、両者は同一人物ではないかとの説もある。 |
| 『日本書紀』には、次のようなエピソードがある。 |
| 豺狼を残忍な例えとするのは『後漢書』などに書かれており、話自体が後世の創作とも考えられるが、雄略天皇の性格を表した一節といえる。 |
| さらに、前述の草香幡梭姫皇女を始めとして、雄略天皇の皇后、妃は実家が誅された後に決められたものが多い。 |
| 王権の強化のため、有力皇族や豪族を征伐したのち、その残党を納得させてヤマト王権に統合するために妃を取るということであろう。 |
| 兄である安康天皇のやり方を見習っただけではなく、雄略天皇の治世では、皇族だけでなく有力豪族にも拡大適用してヤマト王権の強化を強行し、征伐された皇族・豪族からの恨みを買って雄略天皇暴君の記述が残されていると思われる。 |
陵墓・霊廟
| 丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)に葬られた。 |
| 大阪府羽曳野市島泉にある高鷲丸山古墳(円墳・径76m・島泉丸山古墳とも)と平塚古墳(方墳・辺50m)に比定されている。 |
| 同県松原市西大塚と羽曳野市南恵我之荘に亘る河内大塚山古墳(前方後円墳・全長335m)とする説もあるが、埴輪が無い等の特徴から前方後円墳終末期のものである可能性が高く、そうであれば雄略の崩年と築造年代に数十年の開きがある。 |
| 『古事記』によると、顕宗天皇の父(市辺押磐皇子)の仇討ちをすべく、意祁命(後の仁賢天皇)が自ら雄略天皇陵の墳丘の一部を破壊したとある。 |
| 『書紀』にも、顕宗が陵の破壊を提案したが皇太子億計がこれを諌めて思い止まらせたとする。 |
その他
| 伊勢神宮外宮を建立した。 |
| 元々、豊受大神は葛城氏が代表して奉祀しており、葛城氏没落後、あまり省みられなかったが、崇敬の声が大きくなり、丹波国にも祀られていたものを、雄略天皇22年(崩御前年)に外宮を設立することで収拾を図ったのではないかとする説がある。 |
| 豊受大神と名が似ている飯豊天皇は、その揺り返しの中で政務を執った可能性もある。 |
| また、雄略天皇の皇女で、斎宮である栲幡姫皇女(稚足姫皇女)が、湯人(ゆえ:皇子女の沐浴等に仕える役職)の盧城部連武彦の子供を妊娠したと、阿閇臣国見に讒言され、無実を訴えるため自殺した事件が雄略天皇紀3年4月条に載っている。 |
| 皇女の母である葛城韓媛が父の葛城円大臣から即位前の雄略天皇に、妃として献ぜられたとする記事より約3年後のこととなり、献ぜられる前に韓媛が皇女を産んでいないと年代が合わない。 |
| むしろ、上記讒言事件は、外宮の設立と年代が近かったのではないかと推測される。 |
| 尚、阿閇臣国見は、讒言が誤りだと判明した後、伊勢神宮では無く、石上神宮に逃げ込んでいる。 |
| 『古事記』では、即位前の雄略天皇に対し、大長谷王(おおはつせのみこ)という表記が度々見られる。 |
| 通常、即位前の天皇に命(みこと)の称号を用いる『古事記』に於いて、王(みこ)の称号が用いられているのは、異例である。 |
御製歌
| ;『万葉集』巻第一より{{Citeweb|year=1999|url=http://etext.lib.virginia.edu/japanese/manyoshu/Man1Yos.html|title=Manyoshu |
| 籠毛與美籠母乳布久思毛與美夫君志持此岳尓菜採須兒家吉閑名告紗根虚見津山跡乃國者押奈戸手吾許曽居師吉名倍手吾己曽座我許背齒告目家呼毛名雄母。 |
| 籠もよみ籠持ち掘串もよみ掘串持ちこの岳に菜摘ます兒家聞かな告らさねそらみつ大和の国はおしなべて我こそ居れしきなべて我こそ座せ我にこそは告らめ家をも名をも。 |
| ''良い籠やヘラを持って、この丘で菜をお摘みのお嬢さん、君はどこの家のお嬢さんなのか教えてくれないか。 |
| 大和の全てを私が治めているのだ。 |
| 私こそ教えよう、家柄も名も。 |
| ;『万葉集』巻第九より{{Citeweb|year=1999|url=http://etext.lib.virginia.edu/japanese/manyoshu/Man9Yos.html|title=Manyoshu |
| 夕されば小倉の山に鳴く鹿はこよひは鳴かず寝ねにけらしも。 |
| ''夕になるといつもは小倉山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない。 |
| 寝てしまったようだ。 |
| 舒明天皇作とも言われている。 |
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1984年
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同市脇本にある脇本遺跡から、5世紀後半のも... |
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