| 幼少時から体を鍛えるのが好きで、小学校では3年生の時から真冬でも頭から水をかぶって登校し、5年生からは重さ3kgもある鉄下駄を履くなどしていた。 |
| 中学生の時に君ヶ濱親方(元関脇・鶴ヶ嶺、後の井筒親方)から勧誘され、最初は断わったものの母親が後押しし、反対していた父親も折れたため、君ヶ濱部屋に入門した。 |
| 1975年(昭和50年)3月場所に本名で初土俵、序二段時代の1976年(昭和51年)5月場所後に故郷の霧島山にちなんで霧島へ改名した。 |
| 1982年(昭和57年)5月場所で新十両、1984年(昭和59年)7月場所で新入幕。 |
| 入幕後しばらくは8勝や9勝がやっと、上位になれば2桁負けなどで平幕を上下していた。 |
| 1986年(昭和61年)11月場所は前頭7枚目で初の2桁勝利となり、12勝3敗で技能賞を獲得した。 |
| 1987年(昭和62年)1月場所は新三役として関脇に昇進するも3勝12敗に終わった。 |
| 1989年(平成元年)1月場所に小結で1勝14敗と惨敗してからは鍛え方を徹底的に見直し、1日に20個の卵や、バナナ2本などが入った夫人特製のプロテインを摂取するとともに、ウエイトトレーニングによる肉体改造に取り組んだ。 |
| ベンチプレス200kg、スクワット300kg以上という強靭な肉体を作り上げ、体重も110kg台から一気に130kg前後まで増加し、その効果もあって結果前頭上位~三役に定着し始めた。 |
| 関脇で迎えた1990年(平成2年)3月場所では、6日目に横綱・千代の富士を吊り出して勝ち、千代の富士の通算1000勝達成を阻んだ。 |
| その後も連勝し続け成績は13勝2敗となり、優勝同点の好成績を挙げる。 |
| 同場所本割の結びの一番の後、横綱・北勝海、大関・小錦と三力士での優勝決定巴戦に出場。 |
| 結果小錦には勝ったが優勝した北勝海に敗れ惜しくも幕内優勝はならなかったが、3月場所後に大関へ昇進が決定した。 |
| なお初土俵から91場所での新大関は、現在も大相撲史上1位のスロー出世最長記録であり、また30歳11か月での新大関も当時二代目増位山の31歳2か月に次ぐ、史上2位(現在3位)の年長記録(現在の新大関年長記録は琴光喜の31歳3か月)だった。 |
| 大関昇進後の霧島は、最大のライバルだった小錦らと共に横綱昇進を争っていた。 |
| 1991年(平成3年)1月場所では、千秋楽に北勝海を下して14勝1敗、ついに念願の幕内初優勝を果たした。 |
| なお初土俵から95場所目、及び31歳9か月での幕内初優勝は当時共に大相撲史上1位のスロー最長記録だった(現在の史上1位は、初土俵から102場所目及び32歳5か月で幕内初優勝の貴闘力、霧島は現在共に史上2位)。 |
| 横綱への昇進も現実味を帯びてきたものの、1月場所の優勝祝賀会など相撲以外の行事への出席による稽古不足や綱とりに対するプレッシャーにより、翌3月場所は5勝10敗と大敗、夢は果せなかった。 |
| その後夏場所から九州場所にかけては二桁勝利を重ね、62勝28敗で年間最多勝になったが、これは当時の最少記録であった(現在は翌1992年の貴乃花(当時・貴花田)の60勝に次ぐ2番目の最少記録)。 |
| また年間最多勝に輝いた力士の中で、最高位が大関で引退したのは霧島と若嶋津の2人しかいないが、奇しくも霧島と若嶋津は初土俵が同じ1975年3月場所で、二人共に同郷の鹿児島県出身であった(学年は霧島が3年下)。 |
| だがこの辺りから肘の故障等に苦しむようになる。 |
| 1992年(平成4年)9月場所、7勝4敗から終盤3連敗の後、勝ち越しをかけた小錦との楽日対決に敗れ、7勝8敗と負け越して角番へ。 |
| 肘の怪我でほとんど握力の無いまま挑んだ翌11月場所は初日から連敗が続くなど精彩を欠き、更に7日目の水戸泉戦で右足首までも負傷して途中休場、16場所守った大関から陥落した。 |
| なお小錦現タレント)は後年霧島を友人、戦友だと話しており、引退した後も大の仲良しと語っている。 |
| ちなみに小錦との幕内取組成績は、38回対戦して19勝19敗と全くの互角であった。 |
| この前年、1991年5月場所の千代の富士の引退を境に、他の日本人横綱三人(大乃国・旭富士・北勝海)も立て続けに引退してしまったため、大関以上では霧島が唯一の日本人力士だった_(ほかの大関は小錦と後に横綱となる曙)。 |
| しかし11月場所で霧島の大関陥落により、1993年(平成5年)1月場所では日本人の横綱・大関が不在となっている(同場所後、貴乃花(当時・貴ノ花)が大関に昇進したため日本人不在は1場所で終わる)。 |
| 陥落前の力が落ちてきた時期の霧島の相撲には、三杉里を網打ちで倒したり、貴乃花(当時・貴花田)を内掛けで下すなど、技を活かしたものが多かった。 |
| 1993年1月場所は公傷制度適用のため休場。 |
| 西張出関脇で再起をかけた3月場所は5勝10敗の負け越しに終わり、大関復帰はならなかった(10勝以上で規定により大関復活だった)。 |
| その後は平幕の地位に定着するも、人気の高さは変わらなかった。 |
| 大関陥落後は、幕内中位から下位の番付では出し投げを中心とした技能相撲で勝ち越すことも出来たが、幕内上位に上がると大負けするという状態が続いた。 |
| 勝ち越した場所も8勝7敗で終わることが多かったため、番付の上がりは遅く、常に十両落ちの危機と隣合わせだった。 |
| また大関時代は130kg以上あった体重も、陥落後半年が経つ頃には120kg台前半まで落ちるなど体力の衰えも目立った。 |
| 幕尻近い西前頭14枚目で迎えた1996年(平成8年)3月場所は3勝12敗で終わり翌場所は十両となることから、この場所限りで引退、同部屋の弟弟子である寺尾が持つ年寄・錣山を借りて襲名した。 |
| その後名跡を勝ノ浦(伊勢ノ海親方所有の借株)に変更し井筒部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、1997年(平成9年)12月に陸奥親方(元前14・星岩涛)の退職を受け、陸奥に名跡変更(年寄株取得)するとともに陸奥部屋を継承した。 |
| さらに2000年(平成12年)11月に立田川親方(元関脇・青ノ里)が停年退職した際に、立田川部屋を吸収して突如大部屋に変貌することになった。 |
| 2010年1月場所までは審判部に所属しており、幕内の取組で勝負審判を務めることも多かった。 |
| 2010年2月より日本相撲協会理事を務めるが、2011年4月に弟子の八百長問題の影響を受けて委員に降格となった。 |