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つながりの強いひと
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目黒不動
江戸中期の儒者。通称は文蔵。元禄11年(1698)に生まれ、京都の儒者伊藤東涯に学ぶ。 比翼塚 幡随院長兵衛との掛け合いでお馴染み、四代目鶴屋南北作の歌... |
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徳川吉宗
江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は紀州藩第5代藩主をつとめ、さらにそれ以前は越前国葛野藩主であった。 |
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伊藤東涯
江戸時代中期の儒学者。儒学者伊藤仁斎の長男で、その私塾古義堂の2代目。母の嘉那は尾形光琳・乾山の従姉に当たる。名は長胤(ながつぐ)、字は原蔵・源蔵・... |
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前野良沢
豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の藩医で蘭学者。『解体新書』の主幹翻訳者の一人。良沢は通称で、名は熹(よみす)、字は子悦、号は楽山、のちに蘭化。 |
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大岡忠相
江戸時代中期の幕臣・大名。大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。生家は旗本大岡忠吉家で、父は美濃守・大岡忠高、母は北条氏重の娘。忠相の子孫は代々西... |
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佐藤信淵
江戸時代後期の絶対主義的思想家であり、経世家(経済学者)、農学者、兵学者、農政家でもある。出羽国雄勝郡郡山村(現秋田県雄勝郡羽後町)出身。通称は百... |
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加藤枝直
江戸時代中期の幕臣・歌人。姓は橘氏。通称は又左衛門、又兵衛。号は南山・芳宜園。生れは伊勢国松坂。加藤千蔭の父。江戸に出て幕府に仕え、大岡忠相配下の... |
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杉田玄白
江戸時代の蘭学医。若狭国小浜藩(福井県)医。私塾天真楼を主催。父は杉田玄甫、母は八尾氏の娘。諱は翼(たすく)、字は子鳳、号は鷧、晩年に九幸翁。杉田... |
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大槻玄沢
仙台藩の支藩一関藩(田村氏領)出身の江戸時代後期の蘭学者。名は茂質(しげかた)、字は子煥(しかん)。磐水(ばんすい)と号す。『解体新書』の翻訳で有... |
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大日如来
密教において宇宙そのものと一体と考えられる汎神論的な如来(法身仏)の一尊。三昧耶形は、金剛界曼荼羅では宝塔、胎蔵曼荼羅では五輪塔。種子(種字)は金... |
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佃屋半右衛門
すでに西日本では飢饉の際の救荒作物として知られていた甘藷( サツマイモ )の栽培を昆陽に命じ、小石川薬園( 小石川植物園 )と下総国千葉郡馬加村(現在... |
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祐天
浄土宗大本山増上寺36世で、江戸時代を代表する呪術師。字は愚心。号は明蓮社顕誉。密教僧でなかったにも関わらず、強力な怨霊に襲われていた者達を救済、そ... |
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平賀源内
平賀源内(ひらがげんない、享保13年(1728年)-安永8年12月18日(1780年1月24日))は江戸時代の日本の本草学者、蘭学者、医者、作家、発明家、画家(蘭画家... |
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野呂元丈
江戸時代中期の本草学者。日本における蘭学の先駆者とされる。本姓は高橋、名は実夫。通称は源次。連山と号す。野呂三省の養子。 |
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芋神様
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巫女ですかwこれからも芋神様に仕えて参りたいと思います(*´∀`)
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羽太
羽太 雄平 (1944-) "羽太 雄平"(はた ゆうへい、1944年 - )は日本の時代小説作家。本名、羽太 康雄(はた やすお)。台湾生まれ、東京育ち。都立港工業高校中... |
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新井白石
江戸時代中期に活躍した旗本・政治家・学者である。学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に渡る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、... |
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伊能忠敬
江戸時代の商人・測量家である。1800年(寛政12年)から1816年(文化13年)まで、足かけ17年をかけて全国を測量し大日本沿海輿地全図を完成させ、日本国の歴... |
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葛飾北斎
日本の近世にあたる江戸時代に活躍した浮世絵師であり、とりわけ後期、文化・文政の頃(化政文化)を代表する一人。代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』... |
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松平定信
江戸時代の大名、政治家。陸奥国白河藩第3代藩主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。定綱系久松松平家第9代当主。 |
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プロフィール
- 青木昆陽とは
- 生涯
- 薩摩芋の関東への普及
- 昆陽と佐藤信淵
- 昆陽神社
- 関連項目
- 参考文献
青木昆陽(あおきこんよう、元禄11年5月12日(1698年6月19日)-明和6年10月12日(1769年11月9日))は、江戸時代中期の儒学者、蘭学者である。名は敦書、字は厚甫、通称は文蔵、昆陽と号した。
生涯
| 江戸日本橋小田原町(東京都中央区)の魚屋・佃屋半右衛門の1人息子として生まれる。 |
| 浪人として京都の儒学者である伊藤東涯に私淑して儒学を学ぶ。 |
| 江戸町奉行所大岡忠相組与力加藤枝直(又左衛門)と懇意で、享保18年(1733年)に加藤推挙により忠相に取り立てられ、幕府書物の閲覧を許される。 |
| 享保20年(1735年)『蕃薯考』(ばんしょこう)を発表した。 |
| 江戸幕府8代将軍徳川吉宗は、すでに西日本では飢饉の際の救荒作物として知られていた甘藷(サツマイモ)の栽培を昆陽に命じ、小石川薬園(小石川植物園)と下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)と上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町)とで試作させている。 |
| この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島において薩摩芋の栽培が普及し、天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評される。 |
| 元文元年(1736年)には薩摩芋御用掛、元文4年(1739年)には御書物御用達となり、昆陽は薩摩芋栽培から離れて幕臣になる。 |
| 寺社奉行となっていた忠相の配下に加わり、甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・三河など徳川家旧領の古文書を調査し、家蔵文書を収集して由緒書を研究。 |
| 昆陽は収集した文書を分類して書写し、『諸州古文書』としてまとめられた。 |
| 原本は所有者に返却され、家蔵文書の重要性を説き保存を諭している。 |
| 紅葉山火番を経て評定所儒者となりオランダ語の習得に努め、弟子には『解体新書』で知られる前野良沢がいる。 |
| 明和4年(1767年)書物奉行を命ぜられたが、明和6年(1769年)流行性感冒により死去、享年72。 |
| 昆陽の薩摩芋試作が関東における普及の直接の理由なのかどうか、佐藤信淵の指摘(後述「昆陽と佐藤信淵」を参照)に見られるように疑問視する説もある。 |
| だが、昆陽が同時代に薩摩芋によって名声を得ていたことは事実である。 |
| 後世“甘藷先生”と称され、墓所の瀧泉寺(目黒不動)には「甘藷先生之墓」がある。 |
| また、甘藷の試作が行われた幕張では昆陽神社が建てられ、昆陽は芋神さまとしても祀られている。 |
| 著書に『蕃薯考』、『和蘭文訳』、『和蘭文字略考』、『経済纂要』、『昆陽漫録』、『草盧雑談』など。 |
薩摩芋の関東への普及
| 一般的には、青木昆陽の薩摩芋試作の後、関東に薩摩芋栽培が広まったとされている。 |
| しかし、この点については、後述の佐藤信淵の指摘をはじめ、以下のような疑問がある。 |
| 加藤枝直の記録によれば、昆陽が幕張・不動堂に出張したのは年間勤務数117日のうち、わずか7日であり、実際は養生所の作場への出勤が主で、ほとんど現地に出向いていない。 |
| 昆陽はこれ以後、薩摩芋栽培普及の職務からは離れ、古文書収集・蘭語研究に携わっていること。 |
| 長崎の鉄工・平野良右衛門という昆陽とともに薩摩芋栽培に携わった人物がおり、実際の栽培は平野がおこなったと考えられる。 |
| 昆陽の試作以前に、関東郡代伊奈忠逵(1712年-1750年)のもとで、甘藷栽培が試みられていた。 |
| 享保期以前に下総銚子経由で薩摩芋の栽培法が、関東にもたらされていたという文献がある(島原重夫『甘藷馬鈴薯年譜』)。 |
| いずれにしても、昆陽の試作が。 |
| 幕府(町奉行)が行った本格的な試作であったこと。 |
| 「蕃薯考」が出版され、栽培の普及を意図したこと。 |
| この試作以降、薩摩芋を幕府が救荒作物として考えるようになったこと。 |
| などから、この試作が、薩摩芋の関東への普及にとって画期的な事件であったと位置づけられている。 |
昆陽と佐藤信淵
| 佐藤信淵はその著書『草木六部耕種法』の中で、昆陽の薩摩芋栽培法を「疎放なる作法」と批判し、昆陽の種芋を直接地面に植える方法に対して、高温多湿な苗代を作り早い時期に収穫する方法を紹介している。 |
| この方法は、最近まで関東各地で行われていた方法で、近世後期の関東地方の農書の多くがこの栽培方法を記している。 |
| また、『甘藷説』の中では、薩摩芋の栽培法を伝えた人物として、幕張の隣村武石村(現千葉市花見川区)の薩摩浪人の話を伝えている。 |
| 佐藤信淵の著書には独自の例話が多く、この話が事実なのかは不明だが、関東地方に薩摩芋栽培が普及する陰には、昆陽の試作以降、多くの試行錯誤が行われ、多くの名もなき甘藷先生がいたと考えられる。 |
昆陽神社
| 所在地 千葉市花見川区幕張町4-594-2。 |
| 位置。 |
| 交通JR総武線、京成千葉線幕張駅 徒歩5分。 |
| 秋葉神社と同一敷地内に所在。 |
| 道路工事のために社殿は取り壊され、一時的に子守神社に移転した。 |
| 2006年11月に新しく作られた現在の社殿に戻った。 |
| 産経新聞(2010-1-7)「【ここいこ】飢饉救ったサツマイモ 幕張から全国へ 青木昆陽甘藷試作地 |
関連項目
| 下総国千葉郡馬加村(千葉県千葉市花見川区幕張町)。 |
| 昆陽神社(千葉県千葉市花見川区幕張町。 |
| JR総武線・京成線幕張駅徒歩5分。 |
| 上総国山辺郡不動堂村(千葉県山武郡九十九里町)。 |
| 小石川薬園(小石川植物園)。 |
| 瀧泉寺(目黒不動)。 |
参考文献
| 「青木昆陽伝」、 平野元三郎 著 (隣人社)。 |
| 「千葉郡幕張町誌」、(家鴨文庫蔵)。 |
| 「年譜 青木昆陽伝」、 青木七男 著 平成16年。 |
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1733年
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加藤推挙により忠相に取り立てられ、幕府書物... |
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1736年
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薩摩芋御用掛、元文4年1739年には御書物御用... |
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