| アメリカ太平洋岸のオリンピック半島・フラッタリー岬付近にたどり着いた彼らは現地のアメリカ・インディアン(マカー族)に救助される。 |
| インディアンは彼らをイギリス船に売り飛ばし、代わりに金物を得た。 |
| このイギリス船はハドソン湾会社の持船で、3人を救助した情報はただちにロンドンへ届けられる。 |
| 会社は費用を負担して3人をマカオ行きのゼネラル・パーマー号に乗せることにした。 |
| 途中、ロンドンに着いた彼らはテムズ川で10日間の船上にとどまっていたが、許されて1日ロンドン見学を行っている。 |
| 彼らがロンドンの地に最初に上陸した日本人であった(日本人として最初に世界一周をした若宮丸の津太夫ら4人がロンドンに寄航しているが上陸は許されていなかったので、音吉ら3人が最初にイギリスへ上陸した日本人となる)。 |
| 1835年12月、パーマー号はマカオにつき、彼らはドイツ人宣教師チャールズ・ギュツラフに預けられる。 |
| そして音吉ら3人はチャールズ・ギュッラフと協力し世界で最初の邦訳聖書「ギュツラフ訳聖書」を完成させる。 |
| 1837年3月、薩摩の漂流民である庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松ら4人がマカオに届けられ異国で同胞たちと対面した。 |
| 同年6月、7人を乗せたイギリス船ローリー号は、マカオを出発し那覇まで来る。 |
| ここで彼らはモリソン号に移乗し、あらためて日本へ向かう。 |
| 7月30日、同船が三浦半島の城ヶ島の南方に達したとき予期せぬ砲撃にさらされる。 |
| これがモリソン号事件である。 |
| この事件に触発されて渡辺崋山、高野長英らが幕府の政策を批判する著書を記す。 |
| 結局モリソン号は通商はもとより、漂流民たちの返還もできずマカオに戻った。 |
| 彼らは再びチャールズ・ギュッラフの元に預けられる。 |
| 1838年(天保9年)アメリカ合衆国へ行く。 |
| その後、音吉は上海に渡り、デント商会に勤めた。 |
| その後1849年(嘉永2年)イギリスの軍艦マリナー号で浦賀へ行く。 |
| 1853年には、アメリカのペリー艦隊に同行予定だった日本人漂流民(仙太郎ら栄力丸船員)の脱走を手引きし、後に清国船で日本へと帰国させている。 |
| また、1854年9月にイギリス極東艦隊司令長官スターリングが長崎で日英交渉を開始したとき、再度来日し通訳を務めた。 |
| この頃にはジョン・マシュー・オトソンと名乗っていた。 |
| その後マレー人と結婚。 |
| 1862年(文久2年)はじめ音吉は上海を離れ、シンガポールへ移住し、その地で幕府の文久遣欧使節通訳の森山栄之助らに会っている。 |
| 1867年(慶応3年)、息子に自分の代わりに日本へ帰って欲しいとの遺言を残し、シンガポールにて病死。 |
| 音吉のシンガポールでの埋葬は後に記録が確認され、記録発見後11年目にして遺骨の発掘に成功する。 |
| 遺灰はその後、音吉顕彰会会長で美浜町長(1991年‐2007年)の斉藤宏一氏らの手によって実に173年ぶりに、祖国日本に戻ることになる。 |