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つながりの強いひと
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孫文
ファン 引き継ぐ者 友達
中国生まれ・アメリカ国籍の政治家・革命家。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また... |
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大川周明
日本の思想家。1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1... |
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犬養毅
日本の政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。通称は仙次郎。号は木堂。中国進歩党総裁、立憲国民党総裁、革新倶楽部総裁、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣... |
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内田良平
昭和初期から後期(1950年代後半-1980年代前半)の俳優。 |
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平岡浩太郎
日本の政治団体玄洋社初代社長、自由民権運動家。 |
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宮崎滔天
日本で孫文達を支援して、辛亥革命を支えた革命家、および浪曲家である。浪曲家としての名前は桃中軒牛右衛門(とうちゅうけんうしえもん)。 |
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葦津珍彦
日本の神道家、保守系思想家。民族派の論客としても著名であった。 |
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大隈重信
日本の武士(佐賀藩藩士)、政治家、教育者。位階は従一位。勲等は大勲位。爵位は侯爵。政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・11・14・29代)、農... |
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夢野久作
日本の禅僧、陸軍少尉、郵便局長、小説家、SF作家、探偵小説家、幻想文学作家。他の筆名に海若藍平、香倶土三鳥など。現在では、夢久、夢Qなどと呼ばれること... |
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中島岳志
日本の政治学者・歴史学者。北海道大学大学院法学研究科・公共政策大学院准教授。専門は南アジア地域研究、近代政治思想史。大阪府出身。清風高等学校卒業。... |
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金玉均
ファン 友達
李氏朝鮮後期の政治家。李朝時代後期の開明派として知られる。字は伯温(ペゴン、)、号に古愚(コウ、)。本貫は安東(新安東金氏)。 |
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中江兆民
友達
江戸時代後期から明治の思想家、ジャーナリスト、政治家(衆議院議員)である。フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理... |
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杉山茂丸
明治から大正、昭和初期にかけて、それぞれの時代の政界実力者と結び、経済や外交、内政などにさまざまな献策を行った人物である。自らは官職も議席も持たな... |
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高場乱
江戸時代末期の女性儒学者で、医者、教育者。筑前国博多の人。幼名は養命。諱は元陽のち乱。通称は小刀。号は仙芝など。 |
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広田弘毅
日本の外交官、政治家。勲等は勲一等。旧名は丈太郎(じょうたろう)。新字体で広田弘毅(ひろたこうき)とも表記される。外務大臣(第49・50・51・55代)、... |
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薄田斬雲
薄田斬雲(うすだざんうん(すすきたざんうんと称したことも)、1877年(明治10年)1月27日-1956年(昭和31年)3月27日)は日本の小説家、ジャーナリスト。伝... |
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東郷平八郎
日本の武士(薩摩藩士)、軍人である。階級位階勲等功級爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。 |
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板垣退助
日本の武士(土佐藩士)、政治家。幼名は猪之助。退助は元は通称。諱は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。号は無形(むけい)。位階勲等爵位は従一... |
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中村天風
中村天風(なかむらてんぷう、1876年7月30日-1968年12月1日)は日本初のヨーガ行者。天風会を創始し、心身統一法を広めた。本名は中村三郎。 |
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プロフィール
- 頭山満とは
- 初期の経歴
- 自由民権運動への参加
- 設立
- 憲則三条
- 政党政治時代
- 金玉均と朝鮮独立党支援
- 福陵新報創刊
- 民権運動からの脱却
- 選挙干渉
- 孫文と頭山
- アジア主義とその挫折
- 幻に終わった和平会談
- 晩年
- 略年表
- 金銭
- 関連サイト
頭山満(とうやまみつる、安政2年4月12日(1855年5月27日)-昭和19年(1944年)10月5日、幼名:乙次郎)は、明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥。号は立雲。玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また、教え子の 内田良平の奨めで 黒龍会顧問となると、 大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、 中江兆民や 吉野作造などの民権運動家や、 大杉栄などのアナキ ...
初期の経歴
| 安政2年(1855年)4月12日、福岡藩士筒井亀策の三男として生まれる。 |
| 後に母方の頭山家を継ぐことになり、太宰府天満宮の「満」から名前を授かって頭山満と改める。 |
| 「小さいときから記憶力が強くて物事を語ることが鋭敏」だったと言われている。 |
| 町でサツマイモを売り歩く貧しい少年時代をすごす。 |
| 16歳の時、福岡藩の勤皇派の流れを汲む高場乱(たかばおさむ)という男装の女医が開いていた興志塾(高場塾)に入門する。 |
| 興志塾は他の塾では断られるような乱暴な少年たちを好んで入門させており、腕白少年たちの巣窟と言われていた。 |
| 頭山はここで進藤喜平太、箱田六輔ら後の玄洋社の創設メンバーと出会う。 |
| 頭山は晩年、当時のことを「教えは徹頭徹尾、実践だった」と回想している。 |
| 明治9年(1876年)に秋月の乱、萩の乱が起こると、頭山はこれに呼応して進藤、箱田らと共に旧福岡藩士の蜂起を画策し投獄された。 |
| 翌年の西南戦争は獄中で知ることになる。 |
| 西南戦争時には、約500名の旧福岡藩士も呼応して決起(福岡の変)したが、それに参加し尊敬する西郷隆盛とともに戦えなかった頭山らの悔しい思いが、玄洋社の原点になっている。 |
| 頭山らが釈放されたのは、皮肉にも西郷の死の翌日であった。 |
| 彼らは海の中道に開墾社を創設し、松林を伐採し田畑を開墾して自給自足の生活を送りながら心身の鍛錬に励み、来るべき時に備える日々を送る。 |
自由民権運動への参加
| 西南戦争の翌年の明治11年(1878年)5月14日、大久保利通が暗殺された。 |
| 西郷討伐の中心人物の死を受け、板垣退助が西郷隆盛に続いて決起することを期待して、頭山は高知に旅立つ。 |
| しかし、板垣は血気にはやる頭山を諭し、言論による戦いを主張する。 |
| これをきっかけに自由民権運動に参画した頭山は、板垣が興した立志社集会で初めて演説を体験し、植木枝盛ら民権運動家と交流を結ぶ。 |
| 高知から福岡に戻った頭山は福岡の街の不良たちを集め、12月に向陽社を結成し、力づくで地元炭鉱労働者の不満や反発を抑えるようになる。 |
| このときも興志塾、開墾社時代からの仲間である進藤喜平太(第二代玄洋社社長)、箱田六輔(第四代社長)が行動をともにし、箱田が向陽社の初代社長となった。 |
| 翌年1月には、福岡の豪商たちの支援を受けて向陽義塾を開校した。 |
| 一方で、この時期は日清の対立が表面化した時でもあり、血気盛んな向陽社では、「討清義勇軍」の募集を行い武道の訓練を熱心に行ったと記録されている。 |
| 子分に気前良く金を与え「スラムの帝王」として知られるようになると地元の政治家達もその暴力に一目おくようになる。 |
設立
| 玄洋社は、自由民権運動の結社であった向陽社を改名して結成された。 |
| 成立年については諸説があり、大正時代に書かれた『玄洋社社史』では明治14年(1881年)2月となっているが、それ以前の活動の記録が残っており、最近では明治12年(1879年)12月成立という研究結果もある。 |
| 自由民権運動を目的とした結社ではあったが、誰もが例外なく西郷隆盛を敬慕しており、束縛がなくきわめて自由な組織だったと言われている。 |
| このなかから、異彩を放つ人材が数々輩出され、近代史に足跡を残すことになる。 |
| 箱田六輔(30歳)・平岡浩太郎(29歳)・頭山満(25歳)は「玄洋社三傑」と称された。 |
憲則三条
| 結成の届け出の際に示された玄洋社の基本精神である「憲則三条」は次の通りである。 |
| 第一条皇室を敬戴すべし。 |
| 第二条本国を愛重すべし。 |
| 第三条人民の主権を固守すべし。 |
| 第三条の「主権」という文言は天皇の大権を連想させるところから問題になり、「人民の権利」と変更することでようやく認可がおりたと言われている。 |
政党政治時代
| 明治13年(1880年)5月に、頭山は福岡から徒歩で東京に向かい、早稲田の近くに一軒家を借りて住み始めた。 |
| 7月初めには東北地方に行脚の旅に出て、福島の河野広中はじめ多くの民権運動家と出会った。 |
| 明治14年(1881年)、政府は国会開設の詔を発布し、九年後の国会開設を決定した。 |
| 自由民権運動は目標を失い、板垣退助は自由党を結成して政党政治の時代に移行する。 |
| 九州でも民権派が結束して九州改進党が発足し、玄洋社にも誘いが来た。 |
| しかし、党利党略に明け暮れる運動家たちを嫌った頭山は加盟を見合わせ、玄洋社の面々は各自の事業に専念するようになる。 |
| 『玄洋社社史』は当時の様子を「頭山は平尾の山荘にあって社員らと農業にいそしみ、箱田は養蚕を業とし、平岡は鉱業に専念する」と伝えている。 |
金玉均と朝鮮独立党支援
| 明治17年(1884年)12月6日、朝鮮で日本と結んで自国の近代化を目指した金玉均が率いる独立党によるクーデター(甲申政変)が起こるが、清国軍の介入により三日間で失敗に終わった。 |
| 頭山は翌年、半島から長崎にたどり着いた金玉均と神戸の西村旅館で会い、支援のため当時の金で5百円を渡した。 |
福陵新報創刊
| 明治20年(1887年)8月、頭山は『福陵新報』(九州日報の前身)を創刊し、社長に就任した。 |
| 玄洋社の中心的人物でありながらその社長になることすらなかった頭山が生涯で唯一持った肩書だった。 |
| 紙面は活気に満ち売れ行きも順調であった。 |
| この時期に議論の的となったテーマは、不平等条約改正反対運動の盛り上がり、清国に対する敵愾心などである。 |
民権運動からの脱却
| 政党政治が始まった当時の日本で、最も関心が高かったテーマの一つが条約改正である。 |
| これは、幕末に結ばれた不平等条約を対等条約に改めようという政治課題であるが、実際に政府が作る改正案はいまだに諸外国の圧力に屈した内容であったため、自由民権運動の流れを汲む活動家たちは「改正反対」を声高に訴えていた。 |
| 頭山は、その不平等条約改正反対運動のリーダー的存在であり、また民権主義を訴えるだけでは国家の存立は困難と考え自由民権運動とは一線を画す手法をとるようになっていた。 |
| 明治22年(1889年)10月18日、黒田清隆首相が「改正を断行する」と閣議で発言したのを受けて、改正交渉の責任者であった大隈重信外相が外務省門前で爆弾を投げ付けられて右脚切断の重傷を負う事件が起きた。 |
| 犯人の来島恒喜は玄洋社員だったが、その場で頸動脈を切って自殺したため背後関係は不明のままとなった。 |
| この事件で黒田内閣は瓦解、条約改正交渉も白紙に戻った。 |
選挙干渉
| 明治23年(1890年)7月、第1回衆議院議員総選挙が行われ、政府側は敗北した。 |
| 日清戦争に向けての軍備拡大を進める政府の予算案は、第一回の議会では土佐派の切り崩しで辛うじて通過したが、翌年の議会では否決される形勢となった。 |
| そこで松方正義首相は衆議院を解散するとともに、次の選挙での民党の締め付けを行った。 |
| これが明治25年(1892年)の選挙干渉であり、民党支持者に対して買収や脅迫が公然と繰り広げられ、時には警官までもが動員された。 |
| 玄洋社がダークなイメージで見られるようになった理由の一つに、この事件があることは否定できない。 |
| 現在の民主主義立場からすると、玄洋社のとった行動は誤りである。 |
| 実施されたばかりの選挙制度は、これをもとに国政を運営して行くには不備が多いと思われた(今なおそうだとの意見もある)。 |
| 民党もそれ以前は清の対日政策を非難し主戦論を唱えていたのであり、反対に転じたのは多分に党利党略によるものである。 |
| その後、玄洋社は結社としての活動を縮小し、頭山は自由民権運動の志士から脱却し、「国士」としてアジア主義への道を歩み始める。 |
孫文と頭山
| 明治28年(1895年)、日清戦争の終結後、広州での武装蜂起を企てた孫文が、密告されたため頓挫し日本に亡命した。 |
| 孫文は明治30年(1897年)、宮崎滔天の紹介によって頭山と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けることになった。 |
| また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。 |
| 明治32年(1899年)、義和団の乱が発生し、翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。 |
| 明治44年(1911年)、辛亥革命が成功し、その翌年、孫文が中華民国臨時政府の大総統に就任すると、頭山は犬養とともに中国に渡って会見し、長年の苦労をねぎらった。 |
| その後、袁世凱に大総統の座を譲った孫文は、大正2年(1913年)の春に前大総統として来日し各地で熱烈な大歓迎を受け、福岡の玄洋社や熊本の宮崎滔天の生家にも立ち寄った。 |
| このとき既に頭山は袁世凱の動向を強く懸念していたというが、その予言通り袁世凱と争って破れた孫文は、再び日本への亡命を余儀なくされた。 |
| 日本政府は袁世凱支持に回っていたため孫文の入国を認めない方針をとっていたが、頭山は犬養を通じて山本権兵衛首相に交渉し、亡命を認めさせた。 |
アジア主義とその挫折
| 明治35年(1902年)、欧米列強による清の半植民地化が加速し、日本とロシアの対立が鮮明になるなか、日本は対ロシア戦略のもとに日英同盟を締結し、頭山も対露同志会を設立した。 |
| 明治37年(1904年)、日露戦争が勃発すると玄洋社は若者を中心に満州義軍を結成、参謀本部の協力を得て満州の馬賊を組織し、ロシア軍の背後を撹乱するゲリラ戦を展開した。 |
| 玄洋社は孫文の革命運動への支援と並行して、明治43年(1910年)の日韓併合にも暗躍したとされている。 |
| 杉山茂丸や内田良平などの社員もしくは250余名の関係者が日韓の連携のために奔走したのは事実だが、玄洋社が目指していたのは植民地化ではなく、「合邦」という理想主義的な形態だったと見られている。 |
| 「合邦」の詳細については定かではないが、内田は現実の日韓併合に対して憤激しており、初めは協力的だった玄洋社と日本政府の関係は後に大きく離間していった。 |
| 大正4年(1915年)、頭山は孫文の紹介で、イギリス領インド帝国の植民地政府から追われ日本へ亡命していたものの、イギリス政府および植民地政府からの要請を受けた日本政府から国外退去命令が出されていたインドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースに会い、支援を決意した。 |
| 同じくインドの独立運動家で、アフガニスタンにインド臨時政府を樹立していたマヘンドラ・プラタップに頭山が会ったのは、ボースの紹介による。 |
| 頭山はこのような独立支援の対象をフィリピン、ベトナム、エチオピアなどにも拡大していった。 |
| 大正13年(1924年)11月、孫文は最後の日本訪問を行い、神戸で頭山と会見した。 |
| 日本軍の中国東北部への侵攻により日中関係が憂慮すべき事態となっているのを受けての会談であったが、孫文が撤退への働きかけを申し入れたのに対し、日本の拡大がアジアの安定につながると真摯に考えていた頭山はこれを断った。 |
| 翌年、孫文の後継者として蒋介石が国民軍総司令官に就任したが、その2年後には下野して頭山を頼って来日し、孫文と同様に頭山邸の隣家で起居する。 |
| 後に蒋介石は、頭山らに激励を受けて帰国し、孫文の宿願であった北伐を成功させる。 |
| 昭和4年(1929年)、南京の中山稜で行われた孫文の英霊奉安祭に、頭山は犬養毅とともに日本を代表して出席している。 |
| 昭和7年(1932年)の満州国建国は、頭山の理想とは大きくかけ離れていた。 |
| 昭和10年(1935年)、来日した満州国皇帝溥儀の招待を、頭山は「気が進まない」との理由で断わっている。 |
幻に終わった和平会談
| 日中戦争が勃発した昭和12年(1937年)、当時の首相近衛文麿は、外相広田弘毅と親密な関係だった頭山を内閣参議に起用する計画を立てた。 |
| 近衛から打診をうけた頭山は内諾したが、彼を「市井の無頼漢に毛の生えたもの」と見ていた内大臣・湯浅倉平が参議起用に反対したため実現しなかった服部龍二『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』(中公新書)ISBN978-4121019516、163-164p。 |
| 戦争が長期化し、日米関係も悪化していた昭和16年(1941年)9月、頭山は東久邇宮稔彦王から蒋介石との和平会談を試みるよう依頼される。 |
| 頭山は、玄洋社社員で朝日新聞社員の緒方竹虎に蒋介石との連絡をとらせ、「頭山となら会ってもよい」との返事を受け取った。 |
| これを受けて東久邇宮が東條英機首相に飛行機の手配を依頼したところ、「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった。 |
| 東久邇宮はこの時の事を「頭山翁は、衰運に乗じてその領土を盗むようなことが非常に嫌いで、朝鮮の併合も反対、満州事変も不賛成、日華事変に対しては、心から憤っていた。 |
晩年
| 頭山は、静岡県御殿場の富士山を望む山荘で昭和19年(1944年)10月5日、89年の生涯を閉じた。 |
略年表
| 大正13年(1924年)孫文最後の来日、「大アジア主義」演説の前日神戸にて会談。 |
金銭
| 頭山は、資産がある時は筑豊で4百万坪、夕張で千5百万坪の炭坑を所有していたといわれ、また「40万坪くらいの山はいくつもあって、2、3万円(現在の金額で1億以上)くらいで売っていた」と回想している。 |
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1855年
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福岡藩士筒井亀策の三男として生まれる頭山 ... |
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1876年
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秋月の乱、萩の乱が起こると、頭山はこれに呼... |
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頭山満さんについてのひとこと紹介
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