| 祖父母は広島からアメリカへ移住した日系一世。 |
| 父親はアメリカ生まれの日系二世で戦後に帰国。 |
| 広島市の日米合同研究施設「原爆傷害調査委員会(通称:ABCC)」(現・放射線影響研究所)に勤務した「文藝春秋」、2009年7月号、277頁。 |
| 幼少時からピアノとチェロを学ぶ。 |
| 小学校三年生のとき、広島に「桐朋学園大学音楽学部附属子供のための音楽教室」が開設され通う。 |
| 齋藤秀雄に才能を見込まれ、東京に出て本格的にチェロを学ぶことを勧められたが家族会議の末、断念「文藝春秋」、2009年7月号、277頁。 |
| スポーツも好きで、大学時代はスキー部に所属。 |
| 1978年に東京外大卒業後、NHKに入局。 |
| 田丸美寿々は東京外国語大学の先輩。 |
| 入局一年後にゴールデンタイムのバラエティ番組、永六輔司会の『ばらえていテレビファソラシド』に異例の抜擢をされ「女性アナウンサーが芸能番組に主役で登場するのはNHK開局以来」と言われた。 |
| 「英語が堪能でピアノの弾ける新人アナ」として、一躍注目を浴び「週刊TVガイド」の表紙を飾るなどお茶の間の人気を博した。 |
| 1980年4月から始まったNHK初の早朝ニュースショー『NHKニュースワイド』でも、初代女性キャスターを務めた。 |
| 当時、女性アナウンサーは10年経験を積まなければ、出演できなかったといわれる「文藝春秋」、2009年7月号、278頁。 |
| 『NHKニュースワイド』は30%の視聴率を上げ、頼近の注目は高まっていたが1981年4月、フジテレビに移籍、同局史上初の女性正社員となるそれまでフジテレビは、女性は全員契約社員でのみ採用する方針を貫いており、益田由美や城ヶ崎祐子も当時は契約社員であった。 |
| 移籍金は2,000万円とも3,000万円とも言われ大きな話題を呼んだ。 |
| 年収も300万円から1,200万円に跳ね上がったとされ、現在のフリー転向の流れの先駆け的存在でもあった |
| 鳴り物入りでフジテレビに迎えられ『小川宏ショー』の新アシスタントになるが、同番組は一年後に終了。 |
| 続いて露木茂と組んで『ニュースレポート11:30』を担当した。 |
| 1984年、当時フジテレビの副社長だった鹿内春雄と結婚(春雄は再々婚)しフジテレビを退社。 |
| これも玉の輿婚とマスコミを賑わせた。 |
| こうした経歴から今日のようにタレント並みに注目を浴びる「女子アナ」の元祖とされる朝日新聞、2009年5月20日、35面< |
| 「女性自身」2009年6月9日号光文社、50頁。 |
| 「文藝春秋」、2009年7月号、文藝春秋、276頁。 |
| 泉麻人も「今日にいう女子アナの登場は頼近からではないか」と述べている『アナウンサーのすべて女性編』共同通信社、1998年、60頁。 |
| 春雄との間に2児を儲けるもわずか4年後の1988年、春雄は42歳で病死。 |
| フジテレビは春雄の後継問題と社内抗争で揺れ、鹿内家から距離を置きたいと思ったのか1990年、2人の息子と渡米。 |
| 米ワシントンD.C.に居住。 |
| スミソニアン博物館でボランティアとして働く。 |
| 春雄は豪邸の他、フジテレビの親会社にあたるニッポン放送株を大量に所有しており、実質的にはその株のほとんどを美津子未亡人が相続することになり、フジテレビは美津子の支配下に置かれかねない状況となっていた。 |
| これに慌てた春雄の父・鹿内信隆はなりふり構わずニッポン放送株を取り戻そうとした。 |
| 美津子が相続した時価にすれば100億円は下らないニッポン放送株は鹿内家に6,600万で買い戻された「文藝春秋」、2009年7月号、282、283頁。 |
| 中川一徳『メディアの支配者(下)』、講談社、2005年、171-179頁。 |
| 1993年、古巣のNHKでテレビ復帰。 |
| 1996年には、NHK大河ドラマ『秀吉』に出演。 |
| 同年12年ぶりにフジテレビ『来日直前!三大テノール』の司会者として復帰。 |
| コンサートプランナーやクラシックコンサートの企画構成、ナレーション、執筆。 |
| 日本音楽財団や日本音楽作家協会理事などを務め幅広く活動する。 |
| 「コンサートプランナー」という肩書きは、頼近が使ってから知られるようになったもの「AERA」2009年6月1日号朝日新聞出版、74頁。 |
| 2004年、田園調布の豪邸を売却し世田谷区野毛の高級マンションに移る。 |
| 2007年に食道がんが見つかり2008年9月、通院のため千葉県流山市のマンションに転居。 |
| 治療を続けたが2009年5月17日午後1時46分、千葉県柏市の病院にて53歳で死去。 |
| 直接の死因は心不全であった。 |