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つながりの強いひと
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松平容保
江戸時代末期の大名・陸奥国会津藩9代目藩主であり、また最後の藩主でもある。血統的には水戸藩主徳川治保の子孫である。京都守護職。美濃国高須藩主・松平義... |
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飯盛
飯盛 義徳 (いさがい よしのり) 慶応義塾大学環境情報学部専任講師。1987年上智大学文学部卒業。松下電器産業(株)入社。1994年慶応義塾大学経営学修士。200... |
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会津藩
陸奥国(後の岩代国)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県の一部を治めた藩。藩庁は若松城(会津若松市)。最大版図は陸奥国北会津郡、耶麻郡、河沼郡、... |
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西郷頼母
江戸時代後期、幕末期の会津藩の家老。家禄1700石。父は西郷近思(ちかし)、母は律子、兄弟多数。妻は千重子。子は長女細布子、次女瀑布子、長男吉十郎有鄰... |
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山川健次郎
山川健次郎(やまかわけんじろう、嘉永7年閏7月17日(1854年9月9日)-1931年(昭和6年)6月26日)は日本の教育者。東京帝国大学で物理学を教える。東京帝国大学、... |
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日向内記
日向内記(ひなたないき、文政9年(1826年)-明治18年(1885年)は幕末の会津藩士。白虎隊士中二番隊の隊長として知られる。 |
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志賀潔
日本の医学者・細菌学者である。赤痢菌の発見者として知られ、朝鮮総督府医院長、京城医学専門学校校長、京城帝国大学総長などを歴任した。 |
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三吉慎蔵
幕末の長府藩士である。諱は時治。幼名は友三郎 |
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保科正之
江戸時代の大名。会津松平家初代、陸奥会津藩初代藩主。江戸幕府第3代将軍徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍家綱を補佐し、幕閣に重きをなした。 |
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飯沼一省
飯沼一省(いいぬまかずみ、2月15日-11月14日)は日本の内務官僚、貴族院議員。戦前から戦後にかけ、日本の都市計画行政を牽引した人物の1人として有名である。 |
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石田和
氏名 石田 和之 ( いしだ かずゆき ) Ishida, Kazuyuki 職名 准教授 性別 男性 生年 西暦1970年 電話 電子メール k - i s h i d a ( @ ) i a s ₍ . ₎ t ... |
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萱野権兵衛
江戸時代末期(幕末)の会津藩家老。戊辰戦争に敗れた会津藩の責任者として処刑された。 |
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徳川家光
江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年-1651年)である。2代将軍秀忠の次男(嫡男)で、母は浅井長政の娘で織田信長の姪にもあたる江であった。乳母は春日局(福... |
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近藤勇
江戸時代末期の新選組局長、幕臣。勇は通称、諱は昌宜(まさよし)。慶応4年(1868年)からは大久保剛、のちに大久保大和。家紋は丸に三つ引。 |
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西川勝
西川勝 [ニシカワマサル] 1957年生まれ。看護師。臨床哲学専攻。大阪大学コミュニケーションデザイン・センター特任准教授。京都市長寿すこやかセンター研... |
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佐川官兵衛
幕末の武士(会津藩家老)、明治時代の警察官。諱は勝、直清。 |
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崎本大海
日本の俳優、タレント、歌手である。愛称は「サッキー」、「サキモン」。東京都練馬区出身。海城中学校・高等学校、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。身長172... |
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中島信行
日本の政治家。男爵。通称は作太郎。長男は中島久万吉。最初の妻は陸奥宗光の妹中島初穂(1877年死去)で、後妻は女性解放運動家の岸田俊子。 |
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プロフィール
- 飯沼貞吉とは
- 出生
- 白虎隊
- その後の貞吉
- 晩年
- 詠歌
- エピソード
- 参考文献
- 登場する作品
飯沼貞吉(いいぬまさだきち、嘉永7年3月25日(1854年4月22日)-昭和6年(1931年)2月12日)は 白虎隊士(士中二番隊所属)。孤舟、孤虎と号した。年齢を偽って 白虎隊に参加したが、戦い利あらず、飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及んだが、死に切れず命を救われた。維新後は貞雄と改名し、逓信省の通信技師として各地に勤務し、日清戦争にも従軍した。1931年(昭和6年)2月12日、77歳で生涯を終えた。戒名は、 白巖院殿孤虎貞雄居士。
出生
| 嘉永7年(1854年)3月25日、会津藩士・飯沼時衛一正の二男として郭内本二之丁と三之丁間、大町通りにて生まれる。 |
| 時衛は物頭を勤め、家禄450石、家紋はからおしきにちがい鷹羽。 |
| 母文子は西郷十郎右衛門近登之の娘で、玉章(たまずさ)という雅号を持つ歌人でもあった。 |
| 家族は、両親と兄の源八、妹のひろ、弟の関弥。 |
| 他に祖父の粂之進、祖母、曾祖母、叔父、下男下女が同居していたという。 |
| 会津藩家老・西郷頼母の妻千重子は叔母にあたる。 |
| 山川大蔵(浩)、山川健次郎、大山捨松、山川二葉らの山川兄弟姉妹は従兄弟(母同士が姉妹)。 |
| 10歳で藩校日新館に入学。 |
| 二経塾一番組に編入され、15歳で止善堂に入った。 |
| 学業・武術ともに優秀で、白虎隊編成時はまだ15歳だったが、長身だったせいもあり、嘉永6年生まれの16歳と年齢を1歳偽って申請し入隊できた(従兄妹の山川健次郎は同年生まれであるが、幼年白虎隊だった)。 |
白虎隊
| 白虎士中二番隊出陣の慶応4年8月22日、父の時衛は既に白河口に出陣、兄の源八(18歳)も越後口の戦線に出ていた為、母の文子から厳かな訓戒を受けた。 |
| 「いよいよ御前は君公の御為に身命を捧げる時が来ました。 |
| 日頃父上よりの御訓えもあり、今日この家の門を出たならば、オメオメと生きて再び帰るような卑怯な振る舞いをしてはなりません。 |
| 就いては、武士の子として目出度い今日の門出なれば、西郷のお祖母さまにも御暇乞いをして来なさい」と、母より(母方の)祖母との面会を許された。 |
| 貞吉は祖母の西郷なほ子を訪ね、はなむけの一首を賜った。 |
| 玉章(たまずさ)という雅号を持つ歌人でもある母は、短冊に一首したためた。 |
| 旧暦8月22日、白虎士中二番隊は戸ノ口原に出撃。 |
| 翌23日の早朝四時頃、副隊長格の教導、篠田儀三郎の指揮の下に、戦ったが敗走。 |
| 飯盛山に至り、炎に包まれた城下を見て、敵に生け捕られることを避けるべく一同は自刃を決意した。 |
| 貞吉も、皆に遅れじと咽喉に脇差を突き立てたが死にきれずにいた。 |
| 彼を救出し、介抱したのは微禄の会津藩士・印出新蔵の妻ハツと言われている。 |
| ハツには貞吉と同じ年頃の息子がおり、その子が鉄砲を持って家を出たまま帰らないので、心配して飯盛山に捜しに来たところ、まだ息のある貞吉を見つけたという。 |
| その後、医者を求めて塩川に辿り着き、近江屋という醸造業を営む深田文内宅に匿われた。 |
| 翌朝町医者の三本住庵(みつもとじゅあん)が手当てしたが、夕刻には長岡藩の軍医(阿部宗達、吉見雲台)が治療をし一命をとり止めた。 |
その後の貞吉
| その後、貞吉は貞雄と改名し、明治3年(1870年)静岡の林三郎の塾(静岡学問所、静岡市)に入り、後の海軍大将・出羽重遠らと共に学ぶが、翌年藤沢(志摩守)次謙(奥医師桂川甫賢の3男)の書生となり、明治5年(1872年)に工部省技術教場(東京)に入所、電信技師となり、同年10月5日には赤間関(山口県下関市)に赴任。 |
| その後、国内各地での勤務を経て、1885年(明治18年)に工部省が逓信省に変わった時には新潟に勤務。 |
| 1891年(明治24年)、広島電信建築区電信建築長に就任、2年後には東京郵便電信局勤務となり、翌1894年(明治27年)には日清戦争のため、大本営付となった。 |
| この間、1892年(明治25年)6月18日付で戸籍訂正し、生年を真実の嘉永7年に改正している。 |
| 1905年(明治38年)、札幌郵便局工務課長となり、1910年(明治43年)に仙台逓信管理局工務部長に就任、日本の電信電話の発展に貢献した。 |
| 飯沼貞雄は1881年(明治14年)に広島藩士松尾錬太郎の娘れんと結婚、1882年(明治15年)に長男一雄、1885年(明治18年)に長女浦路、1897年(明治30年)に二男一精と3人の子に恵まれた。 |
| しかし、一雄が日露戦争に出征して帰還した直後の1906年(明治39年)に札幌で長男を失った。 |
| 原因は赤痢という。 |
| 一精は北海道寿都出身の貞弘弘子と結婚し、三男一女に恵まれた。 |
| なお孫に石巻赤十字病院院長・飯沼一宇藤原正彦の管見妄語95日本の底力『週刊新潮』2011年4月7日号参照、国際医療福祉大学大学院教授・飯沼一浩、甥に大正期から昭和の終戦直後に掛けて内務官僚・貴族院議員などを歴任した飯沼一省がいる。 |
晩年
| 退職後も仙台に住み続けた。 |
| 晩年は、會津三園會のメンバーとなり、秋月満志子に和歌の指導を受けた。 |
| 1931年(昭和6年)2月12日、仙台にて永眠。 |
| 墓は同市内の輪王寺にある。 |
| 「死後若し形見のものを会津の方へ持って葬りたいという話があったら、これをやれ」と、次男・一精氏に髪と抜けた歯を収めた箱を渡して遺言した。 |
| 1957年(昭和32年)9月、戊辰戦争九十年祭の時、前島会の手で飯盛山に墓碑が建てられた。 |
| 貞吉は白虎隊のことを一部の史家以外にはほとんど話さず、子孫も一部の史家のみに史料を委託した。 |
詠歌
| 飯沼貞雄が詠んだ歌を、三首紹介しておく。 |
| 皇太子殿下の飯盛山行啓をききて。 |
エピソード
| 日清戦争に従軍中、危険だからとピストルを持参するよう促した者に、「私は白虎隊で死んでいるはずの人間です」と言って笑ったという。 |
| 長身で、鼻が高くはっきりした顔立ち、スーツにネクタイ姿がよく似合った彼は、英国人の電信建築顧問と並んでも全くひけを取らず、外国人が二人並んで歩いている、と言われたという。 |
| 仙台市の自邸の庭に、貞雄は札幌から持って来た柏の木と、会津地方特産の身不知(みしらず)柿の木を植えている。 |
| また、会津若松に死ぬまで帰ることがなかったという説もあるが、会津大窪山に飯沼家代々の墓があり、貞雄もその家族の墓を建てているので、ひっそりと会津を訪ねていると思われる。 |
参考文献
| 平石弁蔵『會津戊辰戦争』。 |
| 宗川虎次『補修會津白虎隊十九士傳』。 |
| 中村謙『白虎隊事蹟』。 |
| 神崎清『少年白虎隊』。 |
| 秋月一江『飯沼貞吉救助の実証を追って』(『会津史談』第50号)。 |
| 中村彰彦『白虎隊』、金山徳次『札幌にいた白虎隊士―飯沼貞吉―』。 |
| 堀田節夫『帰る雁が祢私注』。 |
| NHK取材班『白虎隊生死を分けた二日間』(『堂々日本史』第3巻)。 |
| 二瓶由民『白虎隊勇士伝』。 |
| 戊辰戦争120年記念出版『会津白虎隊』。 |
| 宮崎十三八『少年白虎隊』。 |
| 前田宣裕『会津戦争の群像』。 |
| 小桧山六郎編『会津白虎隊のすべて』。 |
| 安西悠『勝海舟の参謀』。 |
| 花見詮『白虎隊士自刃蘇生者飯沼貞吉の生涯―塩川での治療と静養を中心に―』(『会津史談』第79号)。 |
| 飯沼孤舟(貞雄)『會津三園會詠草』。 |
| 芳山史哲『飯沼貞雄翁を訪ふ』(『新東北』第17巻190号)。 |
| 一坂太郎『長州奇兵隊』。 |
| 田村哲夫編『防長維新関係者要覧』。 |
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1854年
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会津藩士・飯沼時衛一正の二男として郭内本二... |
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1872年
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工部省技術教場(東京)に入所、電信技師とな... |
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