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張嶷
中国の後漢末期から三国時代にかけての軍人。蜀(蜀漢)に仕えた。字は伯岐。巴郡南允国の人。張瑛・張護雄の父、張奕の祖父。 |
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潘璋
後漢末から三国時代の武将。呉に仕えた。字は文珪。東郡発干の人。子は潘平。 |
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王平
後漢末期から三国時代の軍人。当初は曹操に仕えた一将校であったが、後に劉備の配下となり、三国鼎立後には蜀(蜀漢)の軍事面で重責を担った。字は子均。一... |
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諸葛亮
中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍人。字は孔明(こうめい)。司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建... |
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馬謖
後漢末期から三国時代にかけての武将。蜀に仕えた。字は幼常。襄陽宣城(湖北省宜城県)の出身。襄陽の名家である「馬氏の五常」の中の五男(末っ子)として... |
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孫権
後漢末から三国時代にかけて活躍した武将。呉を建国し初代皇帝に即位した。字は仲謀。長命で帝位に昇る相があるとされ、三国時代の君主の中で最も長命した。... |
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孫策
孫策(そんさく、175年–200年)は中国の後漢末の武将。字は伯符(はくふ)。諡は長沙桓王。 |
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馬騰
後漢末期の軍人。字は寿成。祖先は後漢初期の名将馬援、父は馬平。蜀(蜀漢)の将軍馬超の父に当たる。 |
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陸遜
後漢、中国三国時代の武将、政治家。初名は陸議。字は伯言(はくげん)。謚は昭侯(しょうこう)。陸続の玄孫、陸襃の曾孫、城門校尉陸紆の孫、九江郡都尉陸... |
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孟獲
孟獲(もうかく、生没年不詳)は中国の三国時代の蜀漢期の南方の豪族。 |
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黄忠
中国後漢末期から三国時代の将軍。字は漢升。諡は剛侯。子に黄叙。劉備に仕え、益州や漢中の攻略等で活躍した。三軍筆頭の勇者と評された勇将である。 |
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馬岱
馬岱(ばたい、生没年不詳)は中国三国時代に蜀に仕えた武将。字は伯瞻。馬超の従弟。 |
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陳武
後漢末期の武将。孫策・孫権に仕えた。揚州廬江郡松滋の人。字は子烈。子は陳修。庶子に陳表。『三国志』呉志に伝がある。 |
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朱桓
中国、後漢末から三国時代にかけての武将。呉に仕えた。字は休穆。呉郡呉県の人。朱異の父。朱拠と同族。孫権が将軍となったとき、その幕府の側仕えとしてと... |
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陳泰
陳泰(ちんたい、?-260年)。字は玄伯。諡は穆。中国の三国時代の魏の武将。父は陳羣、母は荀氏(荀彧の娘)。子は陳恂・陳温。 |
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張昭
中国の後漢・三国時代呉の政治家。字は子布。諡は文侯。子に張承・張休・他一名。孫に張震、曾孫に張&38355;(『晋書』(巻七十六列伝第四十六)「張&38355;... |
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呂蒙
中国、後漢末期の武将。孫策・孫権に仕えた。字は子明(しめい)。汝南郡富陂の人。『三国志』呉志に伝がある。 |
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甘寧
中国の後漢末、孫権に仕えた武将。字は興覇(こうは)。益州の巴郡臨江県(現在の重慶市忠県)出身。甘&29900;・甘述(『晋書』「甘卓伝」)の父。甘昌の祖父... |
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姜維
中国三国時代の魏の人物、後に蜀漢の武将。字は伯約(はくやく)。天水郡冀県の出身。父は姜冏。 |
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プロフィール
馬忠(ばちゅう、?-249年)は、三国時代の蜀(蜀漢)の武将。字は徳信(とくしん)。巴西郡閬中の出身。『三国志』蜀志に伝がある。
生涯
| かつて母方の家で養われ、姓は狐、名は篤であった。 |
| 後に馬忠に改めた。 |
| 郡吏を務め、建安年間の末に孝廉に推挙され、ついで漢昌縣の長となった。 |
| 劉備が夷陵の戦いで敗れた際、巴西太守・閻芝が諸縣の兵五千人を徴発して馬忠に率いさせ、援軍として派遣した。 |
| 劉備は永安で馬忠に会い、尚書令・劉巴に「黄権を失ったが、狐篤を得た」と言った。 |
| 建興1年(223年)、丞相・諸葛亮が開幕し、馬忠を門下督とした。 |
| 建興3年(225年)、諸葛亮が南中に至ると、馬忠を牂牁太守とした。 |
| 郡丞・朱褒の反乱を抑えた後、馬忠は威厳と慈しみを以って民の慰撫に勤めた。 |
| 建興8年(230年)、召されて丞相參軍となり、長史・蔣琬の副となり、留府の事務にあたり、このとき益州の治中従事を兼任した。 |
| 建興9年(231年)、諸葛亮の祁山出征にあたり、馬忠は諸葛亮のもとで軍事に携わった。 |
| 祁山から戻ると張嶷らを率い、汶山郡で反した羌族を討った。 |
| 建興11年(233年)、南夷の豪帥・劉胄が反した。 |
| 降都督には、建興9年(231年)に李恢と交代して張翼が就任していたが(「李恢」伝)、張翼は厳格に法を執行しようとしたため、異民族の反発を買っていた(「張翼伝」)。 |
| 朝廷は張翼を召還して馬忠に交代させた。 |
| 張翼が軍備を前もって準備していたこともあり(「張翼伝」)、馬忠は劉胄を斬って南土を平定した。 |
| 忠は監軍・奮威将軍を加えられ、博陽亭侯に封ぜられた。 |
| かつて益州郡では太守が殺されたり捕えて呉に送られたりしていたので(「張裔伝」も参照)、前任の降都督は平穏な縣に常駐していたが、馬忠は庁舎を奥地の縣に移した。 |
| また太守の張嶷を率いて越郡の失地を回復した。 |
| 功により安南将軍となり、彭郷亭侯に封ぜられた。 |
| 延熙5年(242年)、朝廷に召還され、ついで漢中で大司馬・蔣琬に詔を伝えた。 |
| 馬忠は鎮南大将軍を拝命した。 |
| 延熙7年(244年)、大将軍・費禕が魏軍を防戦するにあたり、馬忠は成都に留まり平尚書事に就任した。 |
| 費禕が帰還すると馬忠はまた南方に派遣された。 |
| 延熙12年(249年)、逝去した。 |
| 子の馬脩が跡を継いだ。 |
| 馬脩の弟に馬恢がおり、その子である馬義が西晋の時代、建寧太守となっている。 |
| 馬忠は人となり寛大で公正、度量があり、戯言に大笑するが怒りは面に出さなかった。 |
| 決断力に富み、恩威並び行ったため、任地の住民から畏敬された。 |
| 馬忠が亡くなると住民は流涕して哀しみ、馬忠の廟を立てて祭った。 |
| 降都督としては、張表、閻宇が後任となったが、風格や功績の点ではいずれも馬忠には及ばなかった。 |
| 小説『三国志演義』では、南蛮戦で活躍。 |
| 祝融との一騎打ちで飛刀を受け負傷をし、張嶷と共に祝融に生け捕られる。 |
| だが、その後になって魏延が祝融を捕らえ、人質交換により諸葛亮の陣へと戻されている。 |
| また北伐の際に、諸葛亮の指示に従い伏兵で魏の張郃を射殺した、という大功を挙げたことになっている。 |
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馬忠さんについてのひとこと紹介
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