| 日本初のフルカラー作品となった『カルメン故郷に帰る』撮影後、家を売り払いパリで一人暮らしをする。 |
| そのこぼれ話は「つづりかた巴里」に詳しい。 |
| 1951年12月に帰国、その後はどの社にも属さずどの社の仕事もすると言う当時の異例中の異例であった日本初のフリー俳優として活動を開始した。 |
| 当時は五社協定により所属映画会社に背いた者は映画界からも干されるシステムであったが、そのような中でのこの動きは本人が超のつく大スターであったからこそ可能であったことである。 |
| 女優としての黄金時代を迎えたのがこの時期である。 |
| 数々の名監督とタッグを組み、八面六臂の活躍を見せた。 |
| 松竹においては木下惠介監督作品に多く出演し、『カルメン故郷に帰る』をはじめ、『カルメン純情す』、『二十四の瞳』、『喜びも悲しみも幾歳月』などの作品に出演した。 |
| 『二十四の瞳』の撮影で当時木下の助監督をしていた松山善三と出会い、1955年結婚する。 |
| 仲人は川口松太郎、三益愛子夫妻に木下惠介の3名だった。 |
| この際、めでたい話が横から漏れてゴシップ扱いにされるのを嫌った木下が自ら報道各社に「松竹の木下ですが、うちの松山君と高峰秀子を結婚させますので取材に来てください」と電話をして関係者一同による記者会見を行ったのが芸能人の結婚記者会見のさきがけといわれている。 |
| 1959年4月10日、皇太子と正田美智子との成婚パレードの生中継にてゲスト解説を務めた。 |
| 以来美智子妃との親交がある。 |
| 文藝春秋で日本一の美人を決める対談企画があった際、高峰は「『美女』である以前に人柄や教養も含めた『美人』でないといけないという観点」から美智子妃を推し、企画で選出している。 |
| 東宝においては成瀬巳喜男監督作品に多く出演し、『浮雲』をはじめ『女が階段を上る時』(衣装も彼女が担当した)、『流れる』、『乱れる』、『妻の心』、『放浪記』、『娘・妻・母』などの作品に出演した。 |
| 大映においては豊田四郎監督作品『雁』などに出演した。 |
| その他、夫の松山善三監督のデビュー作品『名もなく貧しく美しく』(東宝)、豊田四郎監督『恍惚の人』(東宝)、稲垣浩監督『無法松の一生』(東宝)、増村保造監督『華岡青洲の妻』(大映)など映画史に名を残す傑作群に出演を果たす。 |
| 映画では年少の男優と夫婦役を演じることが多かった。 |
| 佐田啓二をはじめ、田村高廣、仲代達矢、若山富三郎、天本英世、宝田明らである。 |
| この傾向は木下惠介作品に著しい。 |
| すべてが円満な夫婦像ではないが、包容力と強さ優しさを備えた日本の妻の姿を提示し続けたといえる。 |
| 「永遠の人」で高峰扮するヒロインを陵辱して夫となり憎みあう夫婦を演じた仲代は、多数の名監督と映画史をともにしてきた俳優だが、瀬戸内寂聴との対談で、監督以外では唯一高峰の名を挙げ「厳しい人で、たくさんのことを教えられた」と述懐している。 |
| 大手映画会社の中で高峰と関わりのない東映、日活については1960年代以降のいわゆる「ヤクザ映画」によい感情を抱いていなかったようである。 |
| 1964年の市川崑に撮影が依頼された映画『東京オリンピック』で大論争が巻き起こった際、「とってもキレイで楽しい映画だった。 |
| (文句をつけた河野一郎は)頼んでおいてからひどい話じゃありませんか」と擁護コメントを雑誌や新聞に寄せた。 |
| 雑誌での河野との直接対談でも「永田雅一が友人だからあまり悪くは言えないが」と当時の映画の斜陽化と監督の力量を嘆く河野に対し「それは永田さん(経営者)の問題です。 |
| 監督は所詮勤め人なんですから『これこれこういうものを作れ』と言われたらそういう物しか作れません」と直言するなど、河野に「高峰秀子と言う女は只者ではない。 |
| 今日でもDVDなどで親しまれている名作を、全くの第三者である高峰が体を張って守った形となり、市川は後年の対談でもこの件を深く感謝。 |
| 当時国交のなかった中国大陸からの映画使節団が訪日した際には外務省からの依頼により夫妻でホスト役を担っていた。 |
| 戦前の中国の大スターだった趙丹が江青の俳優時代を知っているという理由だけで江青に投獄された際にはことある都度に知己を通じ「趙丹は元気にしているか」と呼び掛け続けて文化大革命による処刑を阻んだ。 |
| 特に夫・松山善三が脚本を書いた東芝日曜劇場「春の別れ」は、視聴者の感動を呼び、1974年の年末にアンコール放送された。 |
| そのほか、フジテレビ「小川宏ショー」内の「高峰秀子対談」コーナーの聞き手を務めた。 |
| そんな中、1971年2月に高峰は国会の席においてテレビのクイズ番組を低俗だと非難。 |
| そもそもの発端はフジテレビで放送されていた「クイズ・キングにまかせろ!」の賞品(1000万円のマンションの所有権)が独占禁止法に違反しているという告発によるものだった。 |
| 1972年10月には東京紀伊国屋ホールで反戦劇「ケイトンズヴィル事件の九人」に出演。 |