| 壬申の乱の勃発時、吉野宮にいた父とは別居して、高市皇子は近江大津京にあった。 |
| 6月24日に行動を起こした大海人皇子は、大分恵尺を使者として、高市皇子と大津皇子に事を告げ、伊勢で会うよう命じた『日本書紀』巻第28、天武天皇元年6月甲申条。 |
| 以下、事実関係については別に注記がない限り『日本書紀』の当該年月条による。 |
| 二人の皇子は別行動をとり、高市皇子は鹿深を越えて6月25日に積殖山口で父に追いついた。 |
| 鹿深(かふか)は甲賀、積殖は伊賀の阿拝郡の柘植である。 |
| このとき従っていた者は、民大火、赤染徳足、大蔵広隅、坂上国麻呂、古市黒麻呂、竹田大徳、胆香瓦安倍であった。 |
| 高市皇子はそのまま大海人皇子の一行に加わった。 |
| 大津皇子は遅れて鈴鹿関に着き、無事に合流した。 |
| 6月26日、伊勢の朝明郡の郡家の手前で、一行は村国男依に出会った。 |
| 男依は、美濃の軍3000人で不破道を塞ぐことができたと報告した。 |
| 大海人皇子は郡家に着いてから高市皇子を不破にやって軍事を監督させ、東海と東山に動員を命じる使者を送った。 |
| 6月27日、高市皇子は不破から桑名郡家にいた父に使者を送り、「御所から遠くにあって、政治を行うのに不便です。 |
| 近い所にいてください」と要請した。 |
| そこで大海人皇子は野上に移った。 |
| この日、不破においた伏兵が、西から来た敵の使者、書薬と忍坂大麻呂を捕らえた。 |
| 高市皇子は和蹔から野上まで父を出迎え、敵の使者のことを報告した。 |
| 『釈日本紀』が引用する調淡海と安斗智徳の日記によれば、このとき大海人皇子は、唐の人たちに「汝の国は戦が多い国だ。 |
| きっと良い戦術を知っているのではないか」と問うた。 |
| 一人が進んで言うには、「唐国では先ず遣者と観者をやって地形の険平と消息を見させます。 |
| 軍を出して夜襲したり昼撃したりしますが、深い術は知りません」。 |
| そして書紀の次の場面に移る。 |
| 大海人皇子は高市皇子に、「近江朝では、左右大臣と智謀の群臣が一緒に議を定めている。 |
| 今朕はともに事を計る者がない。 |
| 幼少の子供がいるだけだ。 |
| どうしたものか」と言った。 |
| 高市皇子は腕まくりをして剣を握りしめ、「近江の群臣は多いといえども、どうして天皇の霊に逆らえますか。 |
| 天皇独りであっても、ここに臣高市、神祇の霊を頼り、天皇の命を請け、諸将を率いて征討します。 |
| これをどうやって防げましょうか。 |
| 大海人皇子は誉めて高市の手をとり背を撫でて、「慎め、怠るな」といった。 |
| そこで鞍馬を与え、軍事をすべて委ねた。 |
| 高市皇子は和蹔(わざみ)に帰り、大海人皇子は野上に行宮を作った。 |
| 和蹔は和蹔原(和射見が原)のことで、後の関ヶ原盆地を指す。 |
| 不破関はその西方の入り口、野上は東の端にある。 |
| 各地から来た大海人皇子の軍勢は、和蹔に集結して高市皇子に掌握されたと考えられる。 |
| 28日に大海人皇子は和蹔に出向いて軍事を検校して帰った。 |
| 29日にも和蹔に行き、高市皇子に命令を与え、軍衆に号令して、また野上に帰った。 |
| 日付は不明だが、6月末か7月初めに、敵の小部隊が玉倉部邑を衝いたが、出雲狛が撃退した。 |
| 7月2日、大海人皇子はそれぞれ数万の二つの軍を送り出した。 |
| 一方は伊勢から倭(大和)に向かって大伴吹負軍の増援となり、もう一方は不破から出て近江に直に入った。 |
| これ以後の戦闘で、高市皇子の名は見えない。 |
| 近江進攻軍とともにあり、指揮の実際は諸将に委ねたとみるのが自然だが、なお和蹔にあってさらに遠方から来る軍を受け入れたとみることも不可能ではない。 |
| 7月23日に大友皇子(弘文天皇)が自殺したことで、壬申の乱は終わった。 |
| 8月25日に、大海人皇子は高市皇子に命じて、近江の群臣を処罰させた。 |