| 高橋の必死の交渉が実り、浦安沖の漁業補償は無事に決着した。 |
| 川崎の命を受けた高橋は、早速千葉県に掛け合い、埋め立て後の遊園地用地約330万m²の払い下げを申し込んだ。 |
| ところが、当時の千葉県知事であった友納武人は驚き、「ディズニーランド」でさえ約83万m²なのだからといって納得しなかった。 |
| 困った高橋は、なんとか約250万m²の土地を払い下げてもらうということで知事を説得し、話をつけた。 |
| ところが、それを知った川崎はひどく不機嫌なのである。 |
| 川崎は、高度経済成長による所得の向上でレジャー施設の人気が高まってきたことに備えて、その周辺にホテルなどの宿泊施設を建設したいと考えていたのだ。 |
| 結局、オリエンタルランドは県の依頼を受け、商業地も含めた約380万m²の土地を払い下げてもらうことが決まった。 |
| 実は、当初県は埋立地のうち約130万m²を住宅地として売り出す予定だったのだが、「埋立地で地盤が悪い」との前評判が立ってしまい、買い手がつかなかった。 |
| 泣く泣くオリエンタルランドにその分の土地を購入してもらうよう求めてきたのである。 |
| 埋立地の払い下げにも見通しがたった後、高橋が直面したのは、資金の手当てだった。 |
| 当時のオリエンタルランドは名ばかりの弱小企業であったことに加え、土地がまだ出来上がっておらず、担保も無かったことから、どの銀行も融資には難色を示した。 |
| そこで、埋め立て工事を県から委託してもらい、完成した土地を担保にして資金を借りようと考えた。 |
| この請願を千葉県議会に提出したところ、承認をもらうことができたが、県庁の担当者が首を縦に振ろうとしないため、高橋が友納知事に直接交渉に出かけることとなったが、この交渉は決裂した。 |
| 最初は気まずい空気が流れていたものの、二人が同じ東京帝大法学部の出身で、同じ時期に同じ教授から憲法や民法の指導を受けていたことが分かり、一気に和解することとなったという。 |
| 当初、高橋は、自分は「浦安漁民との漁業補償交渉」のために入社したのであって、「交渉が終了した時点でお役御免だ」と考えていたが、状況は一変する。 |
| アメリカ国外では史上初となるディズニーパークが「千葉県東葛飾郡浦安町」に建設されることが正式に決定すると、ディズニー社との交渉が開始されることとなった。 |
| しかし、権利関係にはかなり厳しいと言われるディズニー社との交渉は一筋縄ではいかなかった。 |
| 本業である鉄道事業へ専念するよう銀行団から求められた川崎は、オリエンタルランドの社長を降りざるをえなかった。 |
| 高橋は川崎のかわりに社長に就いたが、決して順風満帆のスタートではなかった。 |
| 1977年3月には正式名称が「東京ディズニーランド」に決定、同年7月にはパーク内施設の協力企業(スポンサー)誘致活動が開始される。 |
| ディズニーランドの日本への誘致について、熱く語る川崎を見た高橋は、イメージが湧かず、本気かどうか疑ったそうである。 |
| あくまでも自分の仕事は埋め立て事業を成功させることであって、ディズニーランドは自分の仕事ではないという気持ちの方が強かった。 |
| だが、埋め立て事業に携わる中で、浦安のこの土地に愛着を持ち、浦安のこの土地に国民の幸福に寄与するものを作りたいという思いが強くなっていった。 |
| その後、ディズニー社とオリエンタルランドとの間で基本契約を取り交わしたのは、1979年4月30日のことである。 |
| 東京ディズニーランドの建設工事は、基本契約締結から1年半が経過した、1980年12月に着工を迎えた。 |
| 1983年3月には、「東京ディズニーランド竣工式」が執り行われた。 |
| そして、4月15日には2万6,000人もの入園客を迎え、「グランドオープニングセレモニー」を開催することとなった。 |
| 川崎が、1958年1月に「ディズニーランド」というものに出会い、強い感銘を受けて以来25年の歳月が経過していた。 |