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つながりの強いひと
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李軌
619年5月に安興貴を派遣して李軌に唐への帰順を説得するが、李軌はこの勧告を聞き入れなかった。そのため安興貴は弟である戸部尚書安修仁と結託し、胡兵を動... |
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林士弘
林士弘(りんしこう)は隋末唐初に割拠した群雄の一人。南越王、または楚帝を称した。饒州鄱陽(現在の江西省上饒市)の人。 |
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劉武周
隋末唐初に割拠した群雄の一人。瀛州景城県(現在の河北省泊頭市の東北)の人。 |
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王世充
王世充(おうせいじゅう)は隋末唐初に割拠した群雄のひとり。 |
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李密
中国の隋末に割拠した群雄の一人である。遼東郡襄平県の出身。字は玄邃、法主。曽祖父は西魏の柱国の李弼、祖父は北周の邢国公の李曜、隋の蒲山郡公の李寛が... |
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李淵
唐朝の初代皇帝(在位:618年6月18日-626年9月4日)。隋末の混乱の中、長安を落として根拠地とし、恭帝侑を隋の正統として立て、その禅譲により唐朝を建国し... |
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羅芸
中国の隋末に幽州総管を称した人物。唐に帰順して燕王に立てられたが、のちに乱を起こした。字は子延、または子廷。本貫は、襄州襄陽県。 |
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李世民
李世民 小前亮/著 出版社名 : 講談社 出版年月 : 2005年6月 ISBNコード : 978-4--5
( 4--2 ) 税込価格 : 2,310円 頁数・縦 : 534P 20... |
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蕭銑
隋末唐初に割拠した群雄の一人。曲阿郡武進県(現在の江蘇省武進県の西北)の人。 |
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郭子和
中国の隋末に割拠した群雄のひとり。唐に帰順して李姓を受け、夷国公に封ぜられた。本貫は、同州蒲城県。 |
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沈法興
中国の隋末に割拠した群雄のひとり。本貫は湖州武康。 |
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梁師都
隋末唐初に割拠した群雄の一人。夏州朔方県の人。 |
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李子通
李子通(りしつう)は隋末唐初に割拠した群雄の一人。東海郡丞県(現在の山東省嶧県)の漁民の子として生まれた。大業末年、李子通は長白山の賊の左才相の下... |
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高曇晟
中国の隋末の民衆叛乱の指導者。本貫は、嬀州懐戎県(現在の河北省張家口市懐来県)。 |
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李勣
李勣(りせき 594年?-669年)は中国唐代の軍人。字は懋功(ぼうこう)。元の姓は徐、元の諱は世勣で、唐より国姓の李を授けられ、後に太宗李世民を避諱して... |
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恭帝
恭帝(きょうてい)は東晋の第11代(最後)の皇帝。9代皇帝孝武帝の次男で10代皇帝安帝の同母弟に当たる。 |
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天興
ベトナム後黎朝の前廃帝厲徳侯が使用した元号。1459年旧10月7日-1460年旧6月7日。『明史』は天与(天與)に作る。ちなみに日本の「大正」改元の際、最終候補... |
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竇建徳
代々農村で里長を務める家に生まれた。611年、煬帝が高句麗遠征(麗隋戦争)の徴発を行った際に二百人長に選抜された。孫安祖の叛乱に連座し、一族が誅殺され... |
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プロフィール
高開道(こうかいどう、生年不詳-624年)は、中国の隋末唐初の民衆叛乱の指導者。本貫は滄州陽信県(現在の山東省陽信県の西南)。
経歴
| 開道は塩業を営む家に生まれた。 |
| 若くして勇敢で腕力にすぐれ、走っては奔馬に匹敵した。 |
| 隋の大業末年、河間の格謙に従った。 |
| ときに格謙が隋の兵に囲まれて捕らわれ、側近は逃げ散り、救出する者がなかったので、開道が単身で奮戦して数十人を殺し、格謙を解放させた。 |
| このため将軍に取り立てられた。 |
| 格謙が隋に滅ぼされると、残党百人あまりとともに海岸の入り組んだ地帯に身をひそめた。 |
| のちに滄州に出ては略奪し、数百人を集めると、北上しながら城鎮を掠め、臨渝から懐遠にいたる一帯をみな撃破し、領有した。 |
| 兵を率いて北平を囲み下せなかったが、618年に守将の李景が支えられなくなって逃亡すると、北平の城を取り、西進して漁陽郡を奪った。 |
| 鎧をつけた馬は数千、部衆は一万人におよぶと、開道は燕王を自称した。 |
| 懐戎の沙門の高曇晟が県令を殺して大乗皇帝を自称すると、開道と兄弟の契りを結んだ。 |
| 開道は斉王の封を受け、五千人を率いて従った。 |
| 3ヶ月後、高曇晟を殺して、その部衆を吸収した。 |
| 再び燕王を称し、始興の元号を建て、百官を置いた。 |
| 620年、竇建徳が羅芸を幽州で包囲すると、羅芸が救援を求めてきたので、開道は二千騎を率いて向かった。 |
| 竇建徳が包囲を解いて去ると、羅芸の仲介により唐に帰順し、蔚州総管・上柱国となり、北平郡王に封ぜられ、李姓を賜った。 |
| 621年、幽州が飢饉にみまわれ、開道は羅芸に穀物の援助を約束し、幽州の老人や子どもに手厚くもてなした。 |
| 羅芸は喜び、さらに兵三千と車数百台、千頭あまりの驢馬を送って、穀物の供給を頼んだ。 |
| しかし開道はこれをことごとく抑留し、北は突厥と結び、羅芸に絶縁を宣告した。 |
| 三たび燕王を称して、劉黒闥とともに唐に攻め込んだ。 |
| 開道は易州を攻めて勝てなかったので、偽降の使者として部将の謝稜を羅芸のもとに送り、援兵を請わせた。 |
| 羅芸は了承してその軍が懐戎に向かう途中、謝稜がこれを撃破した。 |
| 開道が突厥を道案内したので、恒州・定州・幽州・易州などはいずれも被害を受けたという。 |
| 623年、頡利可汗は開道が攻城道具の製作に長けていたので、ともに馬邑を攻めて、これを抜いた。 |
| ときに隋末唐初の群雄は唐に平定されつつあったが、開道はたびたび唐を裏切っていたため、殺されることを恐れて突厥を頼みにした。 |
| しかし開道の将士は山東の人が多く、唐に帰順したいと考えており、部衆も戦乱に倦んでいた。 |
| 624年、劉黒闥の部将だった張君立が亡命してくると、開道の部将の張金樹と結び、開道に叛いた。 |
| 開道は追いつめられて、妻子を縊死させた後に、自らも死を選んだ。 |
| 張金樹は開道の養子たちをみな斬り、また張君立も殺して唐に帰順した。 |
| 唐は開道の旧領を嬀州とし、張金樹を北燕州都督に任じた。 |
伝記資料
| 『旧唐書』巻55列伝第5「高開道伝」。 |
| 『新唐書』巻86列伝第11「高開道伝」。 |
参考文献
| 谷川道雄・森正夫編『中国民衆叛乱史1秦~唐』(平凡社東洋文庫):ISBN9784582803365。 |
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