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つながりの強いひと
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鬼室集斯
7世紀の百済の貴族。百済復興運動で活躍した鬼室福信の縁者。官位は小錦下・学職頭。 |
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扶余豊璋
扶余豊璋(ふよほうしょう、扶余豐璋、生没年不詳)は百済最後の義慈王(在位:641年-660年)の王子。扶余豊璋は『日本書紀』での表記、『三国史記』では余豊... |
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義慈王
百済の第31代、最後の王(在位:641年-660年)で、諱の義慈のままに義慈王と記される。第30代の武王の嫡男である。『旧唐書』などには扶余義慈(扶余または余... |
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天智天皇
同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号で... |
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皇極天皇
日本の第35代天皇(在位:皇極天皇元年1月15日(642年2月19日)-4年6月14日(645年7月12日))。重祚して第37代斉明天皇(さいめいてんのう、齊明天皇。在位... |
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黒歯常之
黒歯常之(こくしじょうし、生年不詳-689年(永昌元年)11月26日)は百済の将軍。百済滅亡後には百済復興を掲げて反唐運動を率いた将軍の一人である。だが、... |
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金春秋
金春秋と金庚信 何ヶ月か前から非情に気になっていたこの本を、やっと購入しました。 「 白村江の真実新羅王・金春秋の策略 」とともに。 ドラマ「善徳女王」... |
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義淵
奈良時代の法相宗の僧。『続日本紀』によると俗姓は市往氏であるが、『扶桑略記』では大和国高市郡の出身で俗姓を阿刀氏とする。父母が長年観音菩薩に祈願し... |
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文武王
新羅の第30代の王(在位:661年–681年)であり、姓は金、諱は法敏。先代の武烈王の長子であり、母は角干(1等官)の金舒玄の娘(金庾信の妹)の文明夫人。王妃... |
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百済王敬福
百済王敬福(くだらのこにきしのきょうふく、文武天皇元年(697年)-天平神護2年6月28日(766年8月8日))は奈良時代の貴族。摂津亮・百済王郎虞の三男。官位... |
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持統天皇
日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日)-持統天皇11年8月1日... |
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武烈王
新羅の第29代の王(在位:654年-661年)であり、姓は金、諱は春秋。父は第25代真智王の子の伊飡(2等官)の金龍春(龍樹とも記される。後に文興葛文王と追封)... |
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阿倍比羅夫
阿倍比羅夫(あべのひらふ、生没年不詳)は7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将軍・大宰帥を歴任した。658年... |
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蘇我倉山田石川麻呂
先祖にその名を持つ、蘇我倉山田石川麻呂を指すという説もある。その後、改新政府において右大臣に任命される。大化5年(649年)、異母弟の日向に石川麻呂が... |
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百済王善光
プロフに関わる情報をネット上から集めたり、独自に収集した情報を配信しています。 皆様がプロフに興味を抱いていただければと思っています。 リンク 気にな... |
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太安万侶
奈良時代の文官。名は安萬侶、安麻呂とも記される。姓は朝臣。多品治の子とする後世の系図がある。官位は従四位下・民部卿。 |
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近肖古王
超新星ゴニル史劇『近肖古王』にキャスティング 傑作(0) 2011/4/14(木) 午後 2:22 アイドルグループ グループ Yahoo!ブックマークに登録 超新星のゴ... |
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孝徳天皇
日本の第36代天皇(在位:孝徳天皇元年6月14日(645年7月12日)-白雉5年10月10日(654年11月24日))。諱は軽(かる)。和風諡号は天万豊日天皇(あめよろず... |
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百済王南典
飛鳥時代 後期から 奈良時代 前期にかけての 公卿 。百済王昌成の子で、 朗虞 ・ 遠宝 らの兄弟とされている。また『 公卿補任 』天平廿一午条 百済王敬福 ... |
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百済王昌成
渡来人 の中で有力なのが、百済王昌成 (くだらのこきししょうせい・くだらのこにきししょうせい) である。
昌成の父は百済王善光 (ぜんこう。禅広) といい、... |
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プロフィール
- 鬼室福信とは
- 『百済本紀』・『旧唐書百済伝』
- 『日本書紀』
- 参考文献
鬼室福信(きしつふくしん、生没年不詳)は、百済の王族・将軍。 義慈王の父である第30代武王(余璋)の従子。官位は恩率(三品官)、のち佐平(一品官)。没した2か月後白村江の戦いで倭国と百済の連合軍が大敗した。 義慈王時代の660年、唐と新羅の連合軍(羅唐同盟)によって百済が滅亡した後も、旧臣らを糾合して抵抗運動を続け、百済の故都である泗&27800;城(現・ 忠清南道扶余郡)の奪還を試みた。この頃、 義慈王の王子であった余豊璋は、倭国との同盟の人質として倭国に滞留していたが、 鬼室福信ら遺臣は、百済復興の旗 ...
『百済本紀』・『旧唐書百済伝』
| 『三国史記』28巻百済本紀「では、豊璋は翌662年5月に入国した。 |
| このとき福信は王を迎えに出て、国政をみな委ねた。 |
| 倭国はこの後も福信あてに軍需物資を送り、福信も捕虜の唐人続守言らを倭国に送った。 |
| 7月、扶余豊(扶余豊璋)は福信が自分を殺そうとしていることを察知し、逆に、これを殺した。 |
『日本書紀』
| 『日本書紀』では、663年6月に、百済王豊璋は福信の謀反を疑って捕らえ、その掌を穿って革紐で縛った。 |
| それから諸臣に対して福信を斬るべきかと問うた。 |
| 達率(二品官)の徳執得は「これは悪逆人であるから放しおくわけにはいかない」と答えた。 |
| 福信は執得に唾して罵ったが、王は福信を斬らせ、その首を塩漬けにした。 |
| 福信の近親者と思われる鬼室集斯は天智4年2月(665年)(即位元年起算よると天智10年正月)に天智天皇から小錦下の位階を与えられ、天智8年(669年)近江国蒲生郡に送られ、そこで没したという。 |
| 墓所は鬼室神社(滋賀県日野町)。 |
参考文献
| 『国史大辞典』(吉川弘文館)「鬼室福信」(執筆:鈴木靖民)。 |
| 『日本史大事典2』(平凡社、1993年、ISBN4582131026)「鬼室福信」(執筆:胡口靖夫)。 |
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