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魏勃
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紀元前189年
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曹参
秦末から前漢初期にかけての武将、政治家。姓は曹氏。諱は参、字は敬伯。前漢第2代相国となった。黄老の学を重んじた。子に曹窋がいる。爵位は平陽侯、諡は懿...
恵王
中国戦国時代の魏の第3代君主(在位:紀元前369年-紀元前319年)。または初代の王。姓は姫。氏は魏。諱は罃(おう)。
呂雉
漢の高祖劉邦の皇后。恵帝の母。字は娥姁(女偏+句)。謚は高后(高皇后)。夫・劉邦の死後、皇太后・太皇太后となり、呂后、呂太后とも呼ばれる。「中国三大...
劉肥
前漢の皇族。前漢時代の諸侯王である斉王。諡号は悼恵王。
灌嬰
中国の秦・前漢時代の武将。
周勃
中国の秦末から前漢初期にかけての武将、政治家。子は世子の周勝之、条侯・周亜夫、平曲侯・周堅らがいる。爵位は絳侯。諡号は武侯。
呂産
前漢の人。劉邦の妻である呂后(呂雉)の一族で、呂氏が権力を握った時代に呂王、相国となった。
劉邦
前漢の初代皇帝(在位:前202年2月28日-前195年6月1日)。沛県の亭長<REF>亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと</REF>であったが、反秦連合に参加...
劉章
前漢前期の皇族。斉王劉肥(悼恵王)の次子で、劉邦(高祖)の孫。哀王・劉襄は兄。諡号は城陽景王。共王・劉喜の父。
文帝
前漢第5代皇帝(恵帝の子とされる2人の少帝を除外し、第3代皇帝とする場合もある)。劉邦の庶子で、生母は薄氏。妻に竇氏がいる。
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魏延
中国後漢末期から三国時代にかけての蜀漢の武将。字(あざな)は文長(ぶんちょう)。義陽郡の人。劉備の荊州時代以来の配下。
韓信
中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。張良・蕭何と共に漢の三傑の一人。世界軍事史上の名将として...
陳平
中国秦末から前漢初期にかけての政治家・軍師。当初は魏咎・項羽などに仕官するものの長続きせず、最終的には劉邦に仕え、項羽との戦い(楚漢戦争)の中で危...
恵帝
恵帝(けいてい)は西晋の第2代皇帝。生まれつき暗愚であり、西晋に混乱をもたらした。
高帝
東アジア世界で皇帝に贈られた諡号。正式には高皇帝(こうこうてい)、あるいはより長い諡号である。太祖の廟号と併せて王朝の創始者に贈られることが多かっ...
蕭何
秦末から前漢初期にかけての政治家。劉邦に天下を取らせた、漢の三傑の一人。
韓王信
秦末から前漢初期にかけての武将、政治家。楚漢戦争期の韓王。この人物の姓名は韓信であるが、同時代に同姓同名で劉邦に仕えた淮陰侯韓信がいる。この人物の...
王莽
新朝の皇帝。即位前の爵位は安漢公。『漢書』等に記されている「莽」の字の草冠の下の字は大ではなく犬である。前漢の元帝の皇后・王政君(孝元皇后)の甥で...
劉喜
前漢初期の皇族。字は仲。諡号は代頃王。沛県の出身。劉太公・劉媼夫妻の次男で劉邦(高祖)の兄、劉伯の弟。呉王劉&28638;の父。前漢成立以前の動向について...
夏侯嬰
秦・前漢時代の中国の武将。劉邦の武将。劉邦と同じく沛県の出身。
プロフィール
魏勃とは
若き魏勃
斉の実力者
魏勃の没落
魏勃(ぎぼつ、生没年不詳)は、秦末から前漢初期にかけての武将。
若き魏勃
『史記』斉悼
恵王
世家および『漢書』高五王伝によると、彼の出身地は不詳だが、父が鼓琴の名手だったという。
魏勃の父は秦の皇帝に謁見して鼓琴を披露したことがあった。
魏勃が若かったころ、斉に赴き、斉の国相の
曹参
に面会を求めたが、彼の生家は寒門(貧家)のために、縁故の繋がりがなかった。
そこで魏勃は一案を浮かび、早朝と深夜に毎日、
曹参
の館の門前に清掃した。
これを見た
曹参
の家臣である舎人(属官)は事態が呑み込めず、そこにいた魏勃に問い質した。
魏勃はこの時ばかりに「貧乏であるわたしは丞相さまにお目通り願いたく、せめて早朝と深夜に清掃したのです」と答えた。
これを聞いた
曹参
の舎人は「よし、君の心意気が気に入った。
丞相さまに会わせよう」と述べて、
曹参
との面会を叶わせた。
曹参
は若き魏勃を見て、共に語り合った結果、これは聡明な人物と判断し、舎人として召し抱えた。
数年の歳月が流れ、魏勃は御者として、
曹参
に従った時にある事項を進言した。
魏勃の献策を聴いた
曹参
は「素晴らしい若者だ」と評価し、彼を斉王・
劉肥
(悼
恵王
)に謁見すべく、取り計らったという。
斉王も彼を有能な人材と判断して、直ちに内史(検察官)に昇進させたという。
こうして魏勃は二千石の禄高を貰い、念願の官僚となった。
斉の実力者
やがて、紀元前189年に悼
恵王
が崩じて、太子の劉襄(
哀王
)が亡父の後を継いだ。
その時には
曹参
(紀元前190年没)も既に亡くなっていたので、魏勃が斉の実力者となったという。
やがて、
哀王
は魏勃を中尉に昇進させ、王の母方の叔父である駟釣(後の清郭侯)、郎中令の祝午と共に斉の政権を把握した。
紀元前180年に
呂雉
が死亡すると、魏勃は
哀王
に「わが君、今こそ呂氏一門を誅滅すべきですぞ!」と奮起を促した。
同時に駟釣と祝午も賛同し、それで王は同意した。
その時に
呂雉
が
監察官
として派遣された丞相の召平は只事ならぬと見て、
呂産
・呂禄(共に
呂雉
の甥)に報告すべく動いた。
しかし、魏勃は召平を警戒し、親衛隊を率いて召平の邸宅に押し寄せた。
召平は背筋が凍り魏勃に対して「中尉どの、これは何事ですか?」と叫んだ。
そこで魏勃は「王の印綬をいただきたい。
さらにあなたには今から自決をしていただく」と容赦なく述べた。
召平は観念し「ああ…道家の言葉のように決断を早めないと己の身の破滅を迎えるというが、まことにその通りだった」と叫んで、自決した。
間もなく、魏勃は大将軍に昇進し、新しく斉の丞相となった駟釣と内史・中尉となった祝午と共に軍勢を動かした。
哀王
直々が総大将として長安に向けて呂氏討伐に動いた。
魏勃の没落
やがて、漢の丞相の
陳平
・太尉の
周勃
・上将軍の
灌嬰
ら
劉邦
以来の元勲によって呂氏が滅ぼされると、突如
灌嬰
は急遽に滎陽で魏勃を召喚した。
これは、魏勃が中心となり斉王を煽動したとの報告を聞いたからである。
そこで
灌嬰
は「そちは陛下のお許しもなく、王を煽って動いたと聞くが、これはどういうことか?」と尋問した。
魏勃は歴戦の猛者である
灌嬰
の前で口を痙攣しつつ、震え出してしまい「家が放火した火を消すには、とても報告する猶予はございません」と答えるのが精一杯であった。
これを見た
灌嬰
は笑い出して、魏勃に対して憐れみを感じ「人々は魏勃を賢者と申すが、これは只の凡愚に過ぎん」と述べて、そこで魏勃を免職した。
その後の魏勃の行方は定かではない。
魏勃 - Wikipedia
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