| 現存する数少ない資料によると、三河国宝飯郡内(現在の愛知県豊川市市田町)の生まれで、当初は奥平家の直臣ではなく陪臣であったともいわれている。 |
| 奥平氏はもともと徳川家に仕える小大名であったが、元亀年間中(1570年~1573年)は甲斐武田氏の侵攻を受けてその傘下に下っていた。 |
| ところが、武田家の当主であった武田信玄が死亡すると、奥平氏は再び徳川家に寝返り、信玄の跡を継いだ武田勝頼の怒りを買うこととなった。 |
| 奥平家の当主であった奥平貞能の長男・貞昌(後の信昌)は、三河国の東端に位置する長篠城を徳川家康から託され、約500の城兵で守備していたが、天正3年5月、長篠城は勝頼が率いる1万5000の武田軍に攻囲される。 |
| 5月8日の開戦に始まり、11、12、13日にも大小の攻撃を受けながら、長篠城は周囲を谷川に囲まれた地形が幸いして、城兵たちは果敢に防衛を続けていた。 |
| しかし、13日の武田軍の猛攻によって、城の北側にあった兵糧庫を焼失。 |
| 長篠城は食糧を失って、長期籠城の構えから一転、落城寸前にまで追い詰められていた。 |
| このため、貞昌は最後の手段として、家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断するこの時、岡崎城の家康もすでに長篠城が武田軍の攻撃を受けていることを知っていたが、当時の徳川軍はまだ単独で武田軍と戦えるだけの力がなく、長篠城へ援軍を送るためには家康の同盟者である織田信長の協力が必要不可欠であった。 |
| しかし、武田の大軍によって十重二十重に取り囲まれている状況の下、城を抜け出して岡崎城まで赴き、援軍を要請することは不可能に近いと思われた。 |
| この命がけの困難な役目を自ら買って出たのが強右衛門であった。 |
| 彼は雑兵・軽輩の類であったとされるが、一刻を争う非常事態である以上、身分をとやかく言っていられなかった。 |
| 14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発。 |
| 彼は水泳を得意とする男で、川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらました。 |
| 翌朝、長篠城からも見渡せる雁峰山から烽火を上げ、脱出の成功を連絡。 |
| 15日の内に岡崎城にまで赴いて援軍を要請した。 |
| この時、幸運にも家康からの要請を受けた尾張国の織田信長が武田軍との決戦のために自ら3万の援軍を率いて岡崎城に到着しており、織田・徳川合わせて3万8000の連合軍は翌日にも長篠へ向けて出発する手はずとなっていた。 |
| これを知って喜んだ強右衛門は、城の仲間たちにこの朗報を一刻も早く伝えようと、すぐに長篠城へ向かって引き返したこの時、信長と家康は「武田軍が包囲している長篠城へ一人で戻るのは危険だから、今日は休んで、明日、援軍と共に出発せよ」と言い、強右衛門に休息を与えようとしたが、強右衛門はこれを拒否し、ほとんど休みもせずに長篠へ戻って行ったという。 |
| なお、当時の長篠城から岡崎城までの行程は片道約65kmとされ、強右衛門は往復で約130kmの山道をわずか1日余で走り通したことになる。 |
| 16日の早朝、往路と同じ山で烽火を掲げるが、さらに詳報を伝えるべく入城を試みた。 |
| ところが、城の近くの有海村(城の西岸の村)で武田軍の兵に見付かり、捕らえられてしまった。 |
| 烽火が上がるたびに城内から上がる歓声を不審に思う包囲中の武田軍は、警戒を強めていたのである。 |
| 強右衛門への取り調べによって、織田・徳川の援軍が長篠に向かう予定であることを知った勝頼は、援軍が到着してしまう前に一刻も早く長篠城を落とす必要性に迫られた。 |
| そこで勝頼は、命令に従えば強右衛門の命を助けるばかりか武田家の家臣として厚遇することを条件に、「援軍は来ない。 |
| あきらめて早く城を明け渡せ」と城に向かって叫ぶよう、強右衛門に命令した。 |
| こうすれば城兵の士気は急落して、城はすぐにでも自落すると考えたのである。 |
| 強右衛門は勝頼の命令を表向きは承諾し、長篠城の西岸の見通しのきく場所へ引き立てられた。 |
| しかし、最初から死を覚悟していた強右衛門は、城内に向かって「あと二、三日のうちに織田・徳川の援軍が来る。 |
| それまでの辛抱である」と、勝頼の命令とは全く逆のことを大声で叫んだ。 |
| これを聞いた勝頼は激怒し、その場で強右衛門を磔にして殺した。 |
| しかし、強右衛門の命を賭した忠義と壮烈な死に様を見届けた長篠城の城兵たちは、強右衛門の死を無駄にはしないと大いに士気を奮い立たせ、援軍が到着するまでの二日間、武田軍の攻撃から城を守り通す事に成功した。 |
| この事が5月21日の鳶ヶ巣山の局地戦や設楽原本戦の勝利を呼び込み、後年には徳川氏の天下統一を成立させる結果へとつながった。 |