| 東京都に鳩山威一郎の次男として生まれる。 |
| 学習院初等科、学習院中等科、東京教育大学附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)を経て、東京大学法学部政治学科卒業後、同公法学科に学士入学し卒業。 |
| 早くから政界入りを志望し、田中角栄の下を訪ねる。 |
| 田中は「もし自分が首相になったら秘書にする。 |
| 福田赳夫が首相になったら、福田に紹介する」と約束した上で、見聞を広めるため海外への遊学を鳩山に勧めた。 |
| 鳩山は田中の助言を受け、東大を卒業しアメリカ・スタンフォード大学に留学していた由紀夫を頼り、数ヶ月間アメリカに滞在した後、帰国した。 |
| 昭和51年(1976年)の第34回衆議院議員総選挙に新自由クラブ推薦で旧東京8区から出馬し、初当選。 |
| 同じく無所属の宇都宮徳馬、麻生良方と衆院無党派クラブを結成した(1978年に解散)。 |
| 昭和54年(1979年)の第35回衆議院議員総選挙では苦杯を喫するも、翌1980年のハプニング解散による第35回衆議院議員総選挙で国政復帰を果たした。 |
| 自民党入党後は最大派閥・木曜クラブ(同派中派創政会)経世会に所属。 |
| 平成4年(1992年)、宮澤内閣で文部大臣に就任し、政界入りから16年目で初入閣を果たした。 |
| 文相在任中、「学力偏差値追放」を訴え一斉業者テストを廃止した。 |
| 平成5年(1993年)に自民党を離党し、第40回衆議院議員総選挙では無所属で当選。 |
| 細川内閣発足後もしばらくは無所属で通していたが、1994年1月、前年12月に自民党を離党した西岡武夫、石破茂らと院内会派・改革の会を結成した。 |
| 平成6年(1994年)4月、細川護煕首相の退陣を受けて発足した羽田内閣では労働大臣に就任するも、羽田内閣は2ヶ月で退陣に追い込まれた。 |
| 改革の会は高志会(海部俊樹代表)、新党みらい(鹿野道彦代表)、自由党(柿澤弘治党首)と共に自由改革連合を結成するが、同年12月に解散し、新進党結党に参加した。 |
| 平成8年(1996年)に新進党を離党し、兄・由紀夫らと旧民主党を結党、副代表に就任する。 |
| 更に平成10年(1998年)、民政党の合流により民主党が結成され、東京都連初代会長に就任した。 |
| しかし、党の路線をめぐり、徐々に兄弟間で対立が目立つようになっていった。 |
| その後、民主党を離党し、1999年東京都知事選挙に立候補した。 |
| 不出馬を表明した青島幸男知事の後継指名、及び民主党・生活者ネット・改革クラブの推薦を受け、石原慎太郎の後塵を拝し、2位で落選した(3位は東大法学部の同級生である舛添要一)。 |
| 前述の通り選挙戦で民主党の全党的な支援を受け、同党衆院議員の岩國哲人が選対本部長、吉田公一が事務総長を務めた。 |
| 都知事選落選後は民主党からは距離を置き、自民党に復党する(かねてから邦夫は、民主党の実質的なオーナーである兄・由紀夫との不仲が囁かれており、都知事選出馬は民主党を離党するための口実であったとする見方もある)。 |
| 東京2区補欠選挙には系列都議中山義活を擁立し、鳩山の中選挙区時代からのライバルで平成8年第41回衆議院議員総選挙で鳩山に敗北し、比例復活した深谷隆司は自民党総務会長在職中のため出馬せず、中山が初当選した。 |
| 平成12年(2000年)の第42回衆議院議員総選挙では、自らは東京ブロック比例単独候補として出馬し、東京2区で深谷を支援した(鳩山は当選したが、深谷は通商産業大臣在任中でありながら比例復活が出来ず、落選)。 |
| 平成14年(2002年)に衆院議院運営委員長に就任した。 |
| 平成15年(2003年)の第43回衆議院議員総選挙では突然「あのような人物を一国の総理にするわけにはいかない」と、民主党代表・菅直人の選挙区である東京都第18区に国替えし、出馬。 |
| 民主党の創設者同士の戦いとして注目され、一時は「逆転」と報道されるほど猛追したが及ばず、小選挙区は落選したが比例東京ブロックで復活当選した。 |
| 平成17年(2005年)の第44回衆議院議員総選挙から、母方の祖父・石橋正二郎(ブリヂストン創業者)の出身地である久留米市を主要地盤とする福岡6区へ国替えし、東大法学部の同級生で、かつ兄・由紀夫の側近である古賀一成を破り、当選を果たした。 |
| 平成18年(2006年)9月の平成18年自民党総裁選への立候補に向け活動していたが、推薦人を集められず立候補を断念。 |
| 麻生太郎を支持した。 |
| 自民党復党以降無派閥を通していたが、平成18年10月、かつて所属した経世会の流れを汲む平成研究会に入会した。 |
| 平成19年(2007年)の安倍改造内閣で法務大臣に就任し、久々に表舞台に登場する。 |
| 平成19年自民党総裁選にて、立候補者の麻生太郎(自民党幹事長)の20名の推薦人のうち、推薦人代表となる。 |
| 麻生支持に回ったことから福田康夫内閣では入閣しないと見られていたが、法務大臣に再任された。 |
| 平成20年(2008年)5月の平成研究会役員人事で、会長代理から改編された会長代行に就任。 |
| 同年9月に発足した麻生内閣では総務大臣・内閣府特命担当大臣(地方分権改革担当)に就任したが、翌平成21年(2009年)6月12日日本郵政西川善文社長の進退問題を受け、辞任(事実上の更迭)。 |
| 閣僚辞任以降は離党や新党立ち上げを匂わす発言を繰り返し、議員を集めて自らが手料理を振舞う「有機野菜を食べる会」を開催したり平沼赳夫と会談するなど積極的な動きを見せている。 |
| 平成22年(2010年)1月に発足した議員グループのぞみも鳩山が黒幕と見られているTBS『報道特集NEXT』平成22年(2010年)1月23日放送。 |
| しかし、政界再編のための新党構想を公言するも、兄・由紀夫同様実母から多額の贈与を受けていた問題が発覚し、自民党内で徐々に孤立する。 |
| 平成22年3月15日、自民党に離党届を提出し、24日の党紀委員会で了承された。 |
| 自民党から2度に渡って離党を了承された国会議員は、鳩山が史上初となる。 |
| 邦夫に近いとされてきた麻生派の岩屋毅、平成研究会の田村憲久、河井克行、無派閥(のぞみには参加している)の古川禎久らは、邦夫の離党に同調せず自民党に残留した。 |
| 離党後の内閣総理大臣指名選挙では無所属ながら衆院では唯一新党改革代表・舛添を支持。 |
| 2011年8月30日の総理指名選挙では同じ無所属の中島正純より一票を得たが、鳩山自身は古巣の自民党の谷垣禎一総裁に票を投じている{{Citeweb。 |