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大海人皇子
大海人皇子の陰謀 超古代史壬申の乱 この本を 1 2 3 4 5 6 7 8 9 冊買う 10冊以上買う お困りの方 在庫切れ等により、手配できない場合がございます ... |
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天武天皇
7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。 |
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持統天皇
日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日)-持統天皇11年8月1日... |
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逢志摩
日本の飛鳥時代の人物である。姓は臣。旧仮名遣いでの読みは「あふのしま」。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)の使者になった。 |
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文武天皇
日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日)-慶雲4年6月15日(707年7月18日))。諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。和風諡号は2つあり、『続... |
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大分恵尺
日本の飛鳥時代の人物である。姓は君。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)のために働いた。 |
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高坂王
日本の飛鳥時代の皇族。系譜は明らかでないが、敏達天皇皇子の難波皇子の子とする系図がある。672年の壬申の乱ではじめ大友皇子の側についたが、敗れて大海人... |
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高市皇子
日本の飛鳥時代の人物で、天武天皇の皇子(長男)である。旧仮名遣いでの読みは同じ。後皇子尊(のちのみこのみこと)と尊称される。672年の壬申の乱勃発時、... |
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大伴馬来田
日本の飛鳥時代の人物である。名は望多、望陀とも書く。姓は連。大徳冠大伴咋の子。子に道足・男人がいる。贈大紫位。 |
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大伴吹負
日本の飛鳥時代の人物である。旧仮名遣いでの読みは、「おほとものふけひ」。名は男吹負、小吹負(おふけい)とも書き、旧仮名遣いで「をふけひ」となる。姓... |
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大伴御行
日本の飛鳥時代の人物である。姓は連、後に宿禰。右大臣大伴長徳の子。正広三・大納言。贈正広弐・右大臣。672年の壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)の側に... |
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紀阿閉麻呂
日本の飛鳥時代の人物である。姓(カバネ)は臣。倭国守・紀麻呂岐の子で、子に形見・鷹養・仲足・真弟がいたとする系図がある。冠位は贈大紫。672年の壬申の... |
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藤原京
飛鳥京の西北部、奈良県橿原市に所在する日本史上最初で最大の都城である。また、日本史上最初の条坊制(じょうぼうせい)を布いた本格的な唐風都城でもある... |
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紀訶多麻呂
日本の飛鳥時代の人物である。名は堅麻呂とも書く。姓(カバネ)は臣。系譜は明らかでないが、倭国守・紀麻呂岐の子で、子に岑足・猪麻呂がいたとする系図が... |
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紀大人
日本の飛鳥時代の人物である。姓(カバネ)は臣のち朝臣。紀大口の子。官位は大錦下・御史大夫、贈正三位。672年の壬申の乱のとき大友皇子(弘文天皇)側の重... |
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坂上熊毛
日本の飛鳥時代の人物である。姓は直。冠位は贈大錦下。672年の壬申の乱のとき倭京の留守司であったが、大海人皇子(天武天皇)側に内応した。 |
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多品治
日本の飛鳥時代の人物である。旧仮名遣いでの読みは「おほのほむぢ」。姓ははじめ臣、後に朝臣。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)の側で戦い、莿萩野... |
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鴨蝦夷
日本の飛鳥時代の人物である。氏は賀茂とも書く。姓は君、後に朝臣。鴨由加古の子で、子に吉備麻呂・堅麻呂がいたとする系図がある。冠位は勤大壱、贈直広参... |
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尾張大隅
日本の飛鳥時代の人物である。氏は尾治とも書く。姓は連、後に宿禰。尾張多々見の子とする系図がある。位階は贈従五位上。672年の壬申の乱のとき、大海人皇子... |
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阿倍御主人
日本の飛鳥時代の人物である。氏は布勢・普勢(ふせ)ともされ、阿倍普勢(あべのふせ)の複姓で記される場合もある。姓は臣のち朝臣。左大臣・阿倍内麻呂の... |
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プロフィール
- 黄書大伴とは
- 出自
- 壬申の乱での活躍
- 功臣のその後
- 参考文献
黄書大伴(きふみのおおとも、生年不詳-和銅3年10月14日(710年11月9日))は、日本の飛鳥時代の人物である。氏は黄文とも書く。姓は造、後に連。子に粳麻呂がいる。贈正四位下。壬申の乱の功臣で、 天武天皇・ 持統天皇・ 文武天皇の3代の天皇に仕えた。
出自
| 黄文氏(黄書氏)は、高句麗の久斯那王の後裔『新撰姓氏録』山城諸蕃とする渡来系の氏族で、仏経を作成する職業部である黄文画師の伴造家とされる太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年。 |
| 壬申の乱勃発当時、黄書大伴は大海人皇子の舎人として皇子のそばにいたと考えられている。 |
壬申の乱での活躍
| 672年の壬申の乱において、大海人皇子(のちの天武天皇)は6月24日に吉野での挙兵の際に、倭(大和国)の京の留守司高坂王に使者を遣わし、駅鈴の引き渡しを求めた。 |
| このときの使者に、大分恵尺、黄書大伴、逢志摩の3人が選ばれた。 |
| 皇子は「もし鈴を得られなかったら、志摩はすぐに還って復奏せよ。 |
| 恵尺は急いで近江(大津京)に行き、高市皇子と大津皇子を連れ出し、伊勢で(私と)会え」と命じた。 |
| 恵尺らは高坂王のもとにいって駅鈴を求めたが、得られなかった。 |
| 命令に従い大分恵尺は近江に向かい、逢志摩は大海人皇子のもとに引き返したが、黄書大伴の行動については『日本書紀』に明記されていない。 |
| 黄書大伴は、大伴馬来田と吹負の兄弟に挙兵を告げたらしい北山茂夫『日本古代政治史の研究』114-116頁。 |
| 大伴兄弟は大海人皇子側につくことを決め、吹負は倭の争奪戦に乗り出し、馬来田は大海人皇子の後を追った。 |
| 黄書大伴は、同日中に馬来田とともに吉野宮から皇子の一行を追って、莬田(大和国宇陀郡)の吾城で合流した。 |
| この後の黄書大伴の行動については記録がない。 |
功臣のその後
| 『日本書紀』には、12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、小山位以上の位を与えたとする記事があることから、黄書大伴もこれと同じかそれ以上の位を受けたと思われる。 |
| また、功により黄文大伴は100戸を封じられた『続日本紀』大宝元年(701年)7月21日条。 |
| 天武天皇12年(683年)9月23日にそれまでの造姓から連姓を賜与された。 |
| 朱鳥元年(686年)8月9日に天武天皇が崩御すると、8月28日には、黄書大伴と同じ位階で直大肆の藤原大島は飛鳥寺に高僧を集めて一人に一領の袈裟を与えた。 |
| このことから、当時黄書大伴の位階は直大肆(従五位上に相当)であったことが窺われる。 |
| 大宝元年(701年)に黄文造大伴の壬申の乱での功績が中第と評価され、前に与えられた100戸の4分の1を子に伝えることが定められた。 |
| 大宝3年(703年)7月5日に、正五位下の黄文連大伴は山背守山背国は後の山城国に任ぜられた。 |
| 和銅3年(710年)10月14日に正六位上林陸朗『完訳注釈 続日本紀』には正五位上とある。 |
| 新日本古典文学大系版『続日本紀』では、諸本みな正六位上だが誤りか、とする。 |
| で死んだ。 |
| 壬申の乱における功によって、正四位下の位階と物品を贈られた。 |
| 霊亀2年(716年)4月8日に、子の黄文粳麻呂が父の功によって荘園・田畑を与えられた。 |
参考文献
| 『日本書紀』(新編日本古典文学全集)3、小学館、1998年。 |
| ISBN4-09-658004-X。 |
| 『続日本紀』(新日本古典文学大系)一、岩波書店、1989年。 |
| ISBN4-00-240012-3。 |
| 林陸朗・校注訓訳『監訳注釈続日本紀』、現代思潮社(古典文庫)、第2版1989年(初版1985年)。 |
| ISBN4-329-00375-9。 |
| 北山茂夫『日本古代政治史の研究』、岩波書店、1959年。 |
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黄書大伴さんについてのひとこと紹介
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