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プロフィール
- 黄遵憲とは
- 挙人となるまで(1848年〜1877年)
- 外交官時代(1877年〜1894年)
- 日本への赴任
- アメリカへ
- イギリスとシンガポール
- 強学会と『時務報』
- 湖南の戊戌変法
- 挫折
- 晩年(1898年〜1905年)
- 我が手もて吾が口を写さん-詩人 黄遵憲-
- 漢学者と桜
- 『日本国志』の編纂
- 関連サイト
黄遵憲(こうじゅんけん、漢語拼音:HuangZunxian、英語表記:HuangTsun-hsien、1848年4月27日-1905年3月28日)は、清朝末期の詩人・外交官・政治改革者であり、また知日家としても知られる。
挙人となるまで(1848年〜1877年)
| 人境廬主人や観日道人、東海公、法時尚任斎主人、水蒼雁紅館主人といった号を持つ。 |
| 広東省嘉応州(いまの梅県)の人。 |
| 生家は南宋以来続く客家である。 |
| ただ客家といえど、一族より代々挙人8人を出し、うち1人は進士となっており、その地方では有力な一族だったといえる。 |
| 父黄鴻藻(こうこうそう)も挙人でありながら地方官を歴任し、最終的に知府にまで上っている。 |
| 世界地誌『瀛環志略』(えいかんしりゃく)が刊行され、中国の人々の眼が漸く海外へと向けられつつあった1848年(道光28年)に黄遵憲は生を享けた。 |
| 幼少より青年となるまでの期間は太平天国の乱が起こっていた時期にほぼ重なっているために、多感な年頃の黄遵憲本人に多々影響を与えている。 |
| たとえば黄遵憲は18歳のとき葉氏を妻として迎えているが、その数日後に太平天国軍が州城に押し寄せて避難を余儀なくされ、留守となった実家も大規模な質屋を経営していたために狙われ、莫大な損害を受けている。 |
| その苦難のためか詩集『人境廬詩草』(じんきょうろしそう)では、太平天国滅亡を喜ぶ「感懐」という詩が冒頭を飾っている。 |
| 彼が太平天国に怒りを覚えているのは当然であるが、注目すべきなのは効果的な対策を打てない清朝の官僚にも怒りの矛先を向けている点である。 |
| 黄遵憲が生涯抱き続ける実用的でない科挙と実務に長けてない官僚への不信不満は、おそらくこの時のことが根本にある。 |
| そしてこの不信不満こそが彼の進路を方向付け、そして改革へと駆り立てたのだと言えよう。 |
| 幾度かの試験失敗の後、29歳の時に挙人となり、以後政治の表舞台へと登場する。 |
外交官時代(1877年〜1894年)
| 挙人となって数ヶ月後、日本公使に任命された何如璋(かじょしょう)に従い、参賛(書記官にあたる)として明治日本に同行した。 |
| これは日清修好条規に基づき派遣されたものである。 |
| 当時外交官という職は官歴という点からいってエリート街道にあるものではなかった。 |
| 長男でもあった黄遵憲には家族や知人より引き続き科挙の勉強を続けて進士となることを望む声が寄せられたが、彼はこの道を躊躇無く選んだ。 |
| 進士となっても就職難であったことや、非実用的な科挙のための学問に時間を費やすことに耐えられなかったことがあるが、最も大きい理由は一刻も早く政治の世界に身を置き、衰運の見える祖国のために働きたいという思いが黄遵憲に強かったからであった。 |
日本への赴任
| 黄遵憲は到着してからおよそ4年間日本に滞在し、政府要人との折衝や情報収集に奔走した。 |
| 当時日本と清朝の間には琉球処分や李氏朝鮮を巡る懸案が存在しており、公使団は難しい舵取りを余儀なくされていた。 |
| 琉球処分では当初公使団は強気に交渉したものの、本国にいる大官李鴻章(りこうしょう)との考えの違いや国力の差から日本に押し切られ、煮え湯を飲まされる結果となった。 |
| しかしその交渉過程でまず富国強兵ありきという認識を持つようになり、日本の軍近代化に注目するようになるのである。 |
| つづいて持ち上がった問題が朝鮮の扱いであった。 |
| 朝鮮は中国歴代王朝の朝貢国として位置づけられてきたが、今後もそれと同様の関係を維持したい清朝と、その影響を排したい日本の間で角逐が生じた。 |
| 当時朝鮮は鎖国を国是としていたが、何如璋や黄遵憲は朝鮮が清朝の指導のもと開国し、諸国と条約を結ぶ方が清朝・朝鮮共に得策だと考えるようになっていた。 |
| これは滞在していた日本に影響を受けている。 |
| 当時日本ではロシアの南下に極めて警戒感を持っており、朝鮮がロシアの影響下に入ることを極度に恐れていた。 |
| こうした意見に感化され、黄遵憲たちは日本よりもロシアへの警戒を募らせていったのである。 |
| また同時期結ばれたサン・ステファノ条約によりトルコがロシアに屈しながら、他のヨーロッパ諸国の干渉により逆にロシア側が譲歩せざるを得なかったことを知り、多くの国と条約を締結しておいた方が紛争発生時に第三国からの干渉を期待できると計算したためでもある。 |
| この考えを朝鮮側に伝えるため、第二回修信使として日本に来ていた金弘集と黄遵憲は面会し説得につとめ、さらに『朝鮮策略』を手渡した。 |
| その外交論は以下のような骨子を持つものであった。 |
| #清朝と朝鮮との宗属関係の強化。 |
| #日本やアメリカと連携すべき事。 |
| そのためにアメリカと早くに条約を締結すること。 |
| #通商を拡大し、西欧から軍事や工業技術を学び、富国強兵を図るべき事。 |
| これを金弘集が祖国に持ち帰り、朝鮮の外交を鎖国論から開国論へと転回させるきっかけとなったのである。 |
| 黄遵憲は、外交交渉において日本と激しいやり取りを交わしたが、いたずらに反発せず、明治日本から学ぶべき点があることを悟った。 |
| また後述するように多くの日本人の知己を得ており、文化交流を促進している。 |
| 単なる知日家ではなく、日中友好を近代最初に唱えた人でもある。 |
アメリカへ
| 1882年(光緒8年)、サンフランシスコ総領事へと転任し、日本を離れた。 |
| 当時のアメリカには20万人に及ぶ出稼ぎ華僑がいたが、低賃金で働かされるなど人権が守られているとは言い難い状況にあった。 |
| 清朝はこの状況を知りながらも、アメリカに遠慮して特に問題として取り上げず傍観に終始した。 |
| こうした雰囲気の中黄遵憲は着任したのである。 |
| 折しも華僑を雇用することを禁ずる法律や華僑入国を制限する法律が施行されるなど排斥の機運(中国人排斥運動;英名ChineseExclusionAct)が高まると、トラブルに見舞われる華僑が増加し、それとともに黄遵憲が交渉に乗り出す機会も増えた。 |
| たとえば衛生を口実に華僑が収容所に投ぜられると、わざわざ総領事自ら出向き、収容所の役人を詰問し釈放させたという。 |
| 在米華僑問題への思いは「逐客篇」という詩に詳しい。 |
| この中で初代大統領ジョージ・ワシントンが万国と国交を持ち、いかなる民族も平等に住むことができると宣言してより百年も経たないのに、今のアメリカ政府はその言葉に背いても恥としない、と述べており、自由・平等を国是とするアメリカにおいてなされる非人道的な行為に黄遵憲が怒りを覚えていたことがうかがえる。 |
| 3年後黄遵憲は一旦帰国し、『日本国志』(にほんこくし)の完成に専念した。 |
| そのため張蔭桓(ちょういんかん)や張之洞(ちょうしどう)が外交官として再度着任するよう促しても固辞したという。 |
| その10月には『日本国志』編纂の副産物ともいうべき『日本雑事詩』(にほんざつじし)を『日本国志』に先んじて刊行している。 |
| 『日本国志』は1887年頃に完成し李鴻章らに提出されたが、光緒帝(こうちょてい)の師翁同龢(おうどうわ)や総理衙門章京であった袁昶(えんちょう)など一部の人々に評価されるにとどまり大きな反響は無かった。 |
イギリスとシンガポール
| 1890年(光緒16年)、イギリス・フランス・ベルギー・イタリア兼任公使として赴任する薛福成(せっぷくせい)の参賛としてヨーロッパに向かった。 |
| ヨーロッパでの生活にはあまりなじめず、望郷の念を募らせていたようだ。 |
| 「重霧」という詩では、ロンドンのどんよりとした霧にうんざりする黄遵憲の様子がうかがえる。 |
| 翌年薛福成の推薦で新設されたばかりのシンガポール総領事として赴任。 |
| 東南アジアにも多くの華僑が在住していたが、列強の植民地化が進行する中で保護されずに放置されていたのが現状であった。 |
| 清朝では国を捨てた者として見なしていたためである。 |
| 清朝の方針を転回させ、華僑保護をすべく領事を東南アジア各地に設けようとしたのが薛福成であった。 |
| 薛福成自身は1890年にはじめて海外の土を踏んだのであり、こうした華僑保護を求める政策提言の背後にはアメリカでの経験に基づいた黄遵憲の進言があったのである。 |
強学会と『時務報』
| 日清戦争のさなか、黄遵憲はシンガポール総領事の任を終え帰国したが、以後中国国内の地方官職を歴任することになる。 |
| 帰国後、張之洞からの依頼により江寧洋務局の總弁を引き受け、未解決の教案(反キリスト教事件)の処理に取り組んだ。 |
| 日清戦争の敗北はアヘン戦争よりも大きな衝撃を清朝の知識人に与えたが、黄遵憲もその一人であった。 |
| 戦後、下関条約締結に反対する人々が集まり、富国強兵への道を探る強学会という団体が上海に立ち上げられたが、黄遵憲もそれに参加した。 |
| この時康有為(こうゆうい)や梁啓超(りょうけいちょう)と出会い、その政治改革思想に共感するのである。 |
| 特に梁啓超とは親しく、生涯変わらぬ交友を続けることになる。 |
| 『日本国志』は皮肉にもこの敗戦によって漸く脚光を浴びるようになり、梁啓超の序を付して増訂版が刊行された。 |
| 強学会はさして活動するまもなく李鴻章に睨まれて閉鎖され、機関誌『強学報』(きょうがくほう)も停刊を余儀なくされる。 |
| しかしすぐさま後継紙として旬刊の『時務報』(じむほう)が創刊された。 |
| この『時務報』の設立には深く黄遵憲が関与しており、彼の資金援助によってはじめられたものである。 |
| 梁啓超を主筆に招き、立憲君主制を宣伝鼓吹する論説や、日本をはじめとする外国新聞雑誌の時事問題記事を翻訳して掲載した。 |
| このうち日本の雑誌・新聞からの翻訳には古城貞吉があたったが、彼も黄遵憲が見つけてきた人材であった。 |
| 雑誌は変法思想を広める媒体として大いに力があり、後の戊戌変法(ぼじゅつへんぽう)を準備するのである。 |
| 同時期、日本は戦勝の余勢を駆って蘇州・杭州に租界をつくることを要求した。 |
| 南洋大臣劉坤一のもと黄遵憲は上海総領事珍田捨巳と折衝し新しい条約案を作成したが、清朝上層部によって黙殺された。 |
| なお、上記の古城貞吉は珍田の紹介で知り合ったものである。 |
湖南の戊戌変法
| 1898年(光緒24年)、戊戌変法が開始された。 |
| これは康有為・梁啓超が中心となって起こした富国強兵を目指す改革運動である。 |
| 洋務運動が兵器や工場機械の導入に制限して西欧文明を受容しようとした改革であるのに対し、政治や外交などの制度まで含めた全般的な改革をめざしたものである。 |
| この改革は康有為が光緒帝を擁し、北京で指揮を執っていた。 |
| 黄遵憲は外交官としての経験から、富国強兵のためには全面的な制度改革が不可欠と考え、この戊戌変法を強く支持していたのである。 |
| 戊戌変法の少し前、翁同龢に推薦されて黄遵憲は光緒帝に謁見し変法を説く機会を得た。 |
| 結果、皇帝から信任されたため湖南省の長宝塩法道という官職に就き、さらにその後按察使を兼任した。 |
| 按察使は司法・治安を司り、省内では総督・巡撫・布政使に次ぐ重職であって、進士でもない黄遵憲がこの職につけられたことから、いかに信任篤かったかが分かる。 |
| 当時湖南は総督張之洞、巡撫陳宝箴(ちんほうしん、詩人陳三立の父であり、著名な史家陳寅恪(ちんいんかく)の祖父)、学政の江標(こうひょう)及び徐仁鋳(じょじんちゅう)など改革を志向する官僚が集っていた。 |
| 光緒帝や翁同龢は湖南を改革のモデル地区とする意図があって、黄遵憲を派遣したのである。 |
| それは「西人の政・西人の学を采り、以て我が国の政・学の弊を彌縫す」というように、西欧を改革モデルとするもので、且つ日本を手本としたものであった。 |
| 当時まだ国外の土を踏んだことがある者はまれであり、ましてや官僚・郷紳といった知識人層に限定すれば、尚更少数であった。 |
| 改革はまず『時務報』の経営・あり方をめぐって内紛に巻き込まれていた梁啓超を上海から呼び寄せ、時務学堂という改革思想を教授する学校の総教習とすることから着手された。 |
| 梁啓超ばかりでなく、同じく康有為ら変法派に連なる譚嗣同(たんしどう)・唐才常(とうさいじょう)も同時に教師に任じている。 |
| 上の時務学堂が少壮の学生たちを対象とした啓蒙を目的としたのに対し、士大夫を対象としたのが南学会である。 |
挫折
| 数々の改革を打ち出した黄遵憲であったが、湖広総督張之洞ほかの大官が孔子教や公羊学(くようがく)をめぐって康有為たちから距離を置き始めると、一気に事態が暗転した。 |
| 1898年(光緒24年)に戊戌政変が西太后(せいたいこう)や袁世凱(えんせいがい)らによって行われ、改革が頓挫したのである。 |
| 政変の発生を上海できいた黄遵憲は清朝に一転捕縛されるも、イギリスの駐上海総領事や日本公使林権助の口添えにより重罰は課せられなかった。 |
晩年(1898年〜1905年)
| 郷里に引退後、黄遵憲は丘逢甲(きゅうほうこう)と詩文をやり取りするほか、日本に亡命した梁啓超がその地に創刊した雑誌『新民叢報』や『新文学』に文章を発表する毎日を送った。 |
| 結局前者は1905年(光緒31年)に科挙そのものが廃止されて問題が消滅し、後者は子弟や門人を日本の弘文学院(嘉納治五郎が東京神田につくった留学生用の学校。 |
我が手もて吾が口を写さん-詩人 黄遵憲-
| 厳復(げんぷく)の『天演論』(てんえんろん)が社会進化論を中国に紹介したことを高く評価しながらも、その文体が典雅さ・格調の高さに拘泥するあまり難解すぎると批判したのは、そうした文学観に由来する。 |
漢学者と桜
| 一流の文化人で構成されていた公使団のもとには伊藤博文や榎本武揚、大山巌といった政府の要人や、あるいは宮島誠一郎や明六社(めいろくしゃ)同人の中村正直も訪れるなど、一時期公使館詣が流行したほどであったが、ごく親しくつきあったのは西欧化に批判的な漢学者たちであった。 |
| たとえば大河内輝声(おうごうちてるな、源桂閣と号す)や石川英(鴻斎、石川丈山の九代目子孫)、岡鹿門(千仞)、重野安繹(成斎)、青山延寿(鉄槍、『大日本史』編纂に関わる)、亀谷行(省軒)、巌谷修(一六)といった人々が足繁く公使館を訪ねた。 |
『日本国志』の編纂
| 前者について言えば、五箇条の御誓文、廃藩置県、秩禄処分、地租改正等は無論触れられており、制度改革全般、政治・経済・軍事・文化問わず細かく述べている。 |
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1890年
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じめて海外の土を踏んだのであり、こうした華... |
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2005年
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中華書局より陳錚編『黄遵憲全集』が出版され... |
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