| ハリウッドからのオファーを受けるようになった黒澤は、『赤ひげ』の撮影後にアメリカで『暴走機関車』の制作を準備。 |
| 主演にピーター・フォークとヘンリー・フォンダ、撮影監督にオスカー受賞者ハスケル・ウェクスラーが決定していた。 |
| しかし用意された脚本に黒澤側が納得しなかったことや、制作方針を巡りアメリカ側プロデューサーのジュセフ・E・レヴィンと深刻な対立が生じたために頓挫(黒澤は65ミリカラーを希望したが、ハリウッド側は35ミリ白黒を提示した)。 |
| この企画は、後にアンドレイ・コンチャロフスキーが、黒澤の執筆した脚本を原案として映画化している。 |
| 1968年に日米合作『トラ・トラ・トラ!』の制作に参加する。 |
| 20世紀フォックス側のアメリカ公式発表では黒澤は日本側部分の演出担当、黒澤プロ側の公式発表および日本での報道では総監督ハリウッドの映画制作現場には総監督という役職も該当する単語もない。 |
| 20世紀フォックスの『史上最大の作戦』の例では、複数の監督が存在した場合にの統括はプロデューサーが行う。 |
| アメリカにおいては『トラ・トラ・トラ!』は『史上最大の作戦』と同じフォーマットで撮影されると報道されていた。 |
| だが、これは日米間の認識のずれというよりも、黒澤プロダクションのプロデューサーが意図的に黒澤本人やマスコミに事実と異なる情報を伝えた結果である。 |
| 田草川弘 『黒澤明vsハリウッド』(文藝春秋)となっていた。 |
| しかし健康問題を理由に制作を離れることとなる。 |
| 黒澤は事前に十分なリハーサルを行った上で、撮影に臨むのが通例であるが、米側に、この事前リハーサルの意味が理解されず拒否されたり、東京から来た黒澤に反感を持つ京都太秦撮影所スタッフとの間で摩擦が発生しスタッフがストに突入するなどして現場が崩壊、スケジュールが大幅に遅延し、さらには黒澤が倒れ病院搬送されるなどの事態まで発生する。 |
| ついに、健康問題を理由に監督を降板したという発表がなされるが、これは黒澤の名誉に配慮した表向きの理由であり、製作遅延を無視できなくなった米側による事実上の解任であった田草川弘 『黒澤明vsハリウッド』(文藝春秋)1970年黒澤が制作を離れた後に完成した『トラ・トラ・トラ!』についての週刊朝日のインタビューに対し、黒澤は「見ていないし、見たくもない、当時の改善提案が修正されているとは思えない。 |
| 済んだことであり興味がないし蒸し返すのはもうたくさんで、忘れてしまいたい」旨の内容を答えている。 |
| 一般には、この事件は黒澤に大きな精神的打撃を与えたとされ、後の自殺未遂と関連付けられ語られることも多いが、側近の野上照代(「どですかでん」の興行的失敗のショック)や長女の黒澤和子(監督降板後は、むしろサバサバした様子だった)のように、それを否定する証言もある。 |
| 1970年10月山本周五郎『季節のない街』を原作、木下惠介、市川崑、小林正樹らと結成した四騎の会製作とし、黒澤個人の邸宅を抵当に入れて資金を確保し、初のカラー作品『どですかでん』を撮影・公開するが、商業的には失敗となる。 |
| 1971年末、自殺未遂事件を起こす。 |
| 日本の映画産業の衰退の時期と重なったこともあり、この後は5年おきに撮るようになった。 |
| 1975年にソビエト連邦から招かれ(日本のヘラルド映画社がロシア側に接触して、「黒澤を招いた」という形になるようお膳立てした)、ごく少数の日本人スタッフを連れてソ連に渡り『デルス・ウザーラ』を撮った。 |
| ソ連の官僚体制の中で思うように撮影が進まず、シベリアのタイガでのロケーション撮影は困難を極めた。 |
| 完成した作品は、それまでの作風と異なり極めて静的なものであったために日本国内では評価が分かれたが、モスクワ映画祭金賞、アカデミー外国語映画賞を受賞。 |
| ソ連側の期待に十分に応え、日本国外では黒澤復活を印象づける作品となる。 |
| 1976年11月、日本政府から文化功労者として顕彰される。 |
| その後も外国資本参加による映画制作が続き、ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラを外国版プロデューサーに配した『影武者』(1980年)、フランスとの合作の『乱』(1985年)、米ワーナー・ブラザーズ製作でスティーブン・スピルバーグ提供の『夢』(1990年)などの作品を監督。 |
| 1985年11月、文化勲章受章。 |
| 映画業界の人物としては初の文化勲章受章者となった。 |
| 1990年米アカデミー名誉賞を受賞。 |
| ルーカスとスピルバーグが、「現役の世界最高の監督です。 |
| “映画とは何か”に答えた数少ない映画人の彼にこの賞を送ります」と紹介した。 |
| 『八月の狂詩曲』(1991年)、『まあだだよ』(1993年)に続く次回作として予定されていた『雨あがる』の脚本執筆中に、京都の旅館で転倒骨折。 |
| 療養生活に入り1998年9月6日脳卒中により死去。 |
| 叙・従三位。 |
| 同年10月1日、映画監督としては初の国民栄誉賞を受賞、翌1999年には米週刊誌『タイム』アジア版で「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選ばれた。 |