| 母親に頭が上がらず、今山の戦いの奇襲は母親の叱咤で決めたとも言われる。 |
| 曽祖父の家兼は隆信の才能を見抜き、「長法師丸は大器である」と評したとされる。 |
| 宣教師が残した記録には、「肥前の国主はカエサルに似たり」と記されている。 |
| 若い頃から何度も肥前を追われた経緯からか、疑心暗鬼にかられやすい冷酷な人物であったと言われている。 |
| そのために「肥前の熊」という渾名をつけられた。 |
| また、普段から家臣に冷たく接していたため、沖田畷の戦いで敗色濃厚となったとき、隆信の輿を担ぐことに嫌気の差した側近たちは輿を放り捨てて逃げ、そのため隆信は逃げ遅れて討ち取られたという逸話がある。 |
| このように隆信の人間性については、事績に基づいて否定的に語られることが多い。 |
| しかし、そうした冷酷非情さや狡猾さがあればこそ、肥前の一国人にすぎなかった龍造寺氏が、隆信一代で九州三強の一角にまでのし上がったのではないかという意見もある。 |
| 「その急激な成長の裏には、隆信の狡猾かつ残忍な政略が隠されて」おり、「仏門に身を置いた者とも思えぬ、相手を偽り、策を用いてこれを陥れる非情さが、彼の急成長の大きなバネであった」(外山幹夫『中世の九州』)。 |
| 筑後の蒲池鎮漣(鎮並)は、当初は岳父になる隆信(鎮漣の父の鑑盛に助けられた恩から、隆信は娘の玉鶴姫を鎮漣の妻にしていた)の筑後侵攻にも協力している。 |
| 隆信にとっては鎮漣は娘婿であり筑後における強力な与力でもあった。 |
| しかし、隆信は九州中央への進出のため筑後を領有化せんとして鎮漣と対立し(蒲池氏と島津氏の接近も原因とされている)、口実を設けて天正8年(1580年)に2万の兵で柳川城を攻めている。 |
| しかし九州屈指の難攻不落の城に手こずり、とりあえず鎮漣の伯父であり、隆信側に立っていた田尻鑑種の仲介で和睦する。 |
| その後、天正9年(1581年)に鍋島直茂などと謀り、隆信は和解の猿楽の宴と称して鎮漣を肥前に誘き寄せて騙し討ちにし、残った柳川の蒲池氏一族も皆殺しにした(柳川の戦い)。 |
| その冷酷さは龍造寺四天王の一人・百武賢兼などの腹心からも疑問を持たれ、賢兼は出陣を促す妻に対して「こたびの鎮漣ご成敗はお家を滅ぼすであろう」と答えてしきりに涙を流し、ついに最後まで出陣しなかったほどであった。 |
| また隆信の尖兵となった田尻鑑種ものちに隆信から離反している。 |
| この蒲池鎮漣の謀殺と一族の殺戮は、黒木家永、蒲池益種(黒木益種)、田尻鑑種など、筑後の国人のあいつぐ離反や蜂起を招き、結果的に隆信は筑後経営に手こずることとなり、没落の遠因の一つともなった。 |
| 若い頃から肥前統一までは、英気にあふれた人物だったといわれる。 |
| しかし隠居した後は酒色に溺れて鍋島直茂を政務から遠ざけるなど、乱行が目立ったとされる。 |
| 相当に肥満した人物で、馬に乗ることができなかったという(異説あり)。 |
| 沖田畷でも逃走する時に輿を使わざるを得なかったとされているが、そのために敵の武将・川上忠堅に場所を知られることになったとされる。 |
| 沖田畷での敗戦は、龍造寺軍の将兵が泥田に足を取られて身動きできずにいたにも関わらず、隆信が無謀な攻撃命令を出したため、兵が自暴自棄になって敗れたという説もある。 |
| 島津軍に討ち取られた隆信の首級は後に龍造寺家へ返還されることになったが、鍋島直茂に返還を拒否されたといわれている。 |
| ただし、これは島津が首級を返還しに来ると同時に、龍造寺家中の様子を探るつもりだと読んだ直茂が付け入る隙を与えないために拒否したものといわれる。 |
| 島津側に持ち帰られた首は隆信に因縁のあった赤星親家の未亡人に引き渡されてなぶり物にされたとも、島津家久によって願行寺(玉名市)に葬られたとも、島原の川に流されたとも言われる。 |
| 隆信の残した言葉として「分別も久しくすればねまる」というものがある。 |
| 「ねまる」とは「腐る」の意で、熟慮も過ぎると却って期を逃したり、悪い結果になる事もあるので、ここぞという時は迅速な決断力が必要である、という意味である。 |
| この考えを実践した結果、一代で龍造寺家の版図を大きく広げた一方、少しでも疑いのある人物は次々に処断したりと人望を失う行為も多々行っており、良くも悪くも隆信の人生を左右する結果となった。 |
| 辞世は「紅炉上、一点の雪」である。 |