| ストリートミュージシャン出身で、路上時代は主に神奈川県横浜市中区伊勢佐木町の松坂屋前で路上ライブを行っていた。 |
| 最初に路上に出たのは岩沢で、それを見た北川が音楽をしたいという想いを抑えきれず、バイト後「話があるから」と誘い出し、北川家のリビングで酒を飲みながら「一緒にやりたいんだけど」と告白。 |
| 岩沢の返事はドキドキしている北川に比べてかなり軽くOKしたという(参照:WEST21)。 |
| 路上の最終日(1998年8月30日)は、台風直撃にもかかわらず、約7,500人が集まった。 |
| 2人の出会いは小学生の頃だが、クラスが違ったためあまり面識がなかったという。 |
| 中学で初めて同じクラスになり、仲良くなり始める。 |
| 中学時代にキャンディーズの「春一番」を初めて一緒に歌った。 |
| 2人は別々の高校に進学したが、卒業後に中学時代の友達で4人組のバンド(北川がドラマー、岩沢がボーカル)を結成する(北川が入ったのは前のドラマーがやめてからだった)。 |
| しかし「残りの2人(ベース、ギター)と合わない」という理由から、先述のような経緯で2人でデュオを結成するに至った。 |
| 結成当初は「Light's」という名前だった(2人が吸っていたタバコの銘柄が、マイルドセブンライトだったことから)が、これを自分達に合っていない上にダサいと感じていた北川が、2人が当時一緒にやっていたバイト先の食事会で食べた柚子シャーベットから「ゆず」へと変更(因みにその時岩沢はバニラアイスを食べていたため、もしかしたら「ゆず」ではなく「バニラ」になっていたかもとよくネタにしている)。 |
| 音楽プロデューサーにJUN SKY WALKER(S)のベーシストである寺岡呼人を迎え、1997年『ゆずの素』でインディーズ・デビューする。 |
| 翌年1998年1stシングル「夏色」、2ndシングル「少年」で立て続けにブレイク。 |
| 1stフルアルバム『ゆず一家』は最終的に100万枚近い売上を記録した。 |
| フォーク復興の立役者として、新たなるフォークとして「ネオ・フォーク」と呼ばれるジャンルを確立した(本人らの自称は「平成の爽やかフォークデュオ」)。 |
| 2003年・2004年・2009年には「NHK紅白歌合戦」にも出場した。 |
| さらに、初のカウントダウンライブを横浜で行う。 |
| 『栄光の架橋』がNHKの2004年アテネオリンピック放送の公式テーマソングに起用され、ゆずの知名度は更に高まった。 |
| 2005年のベスト・アルバムの発売などを経て以降は、大物アーティストとの共演や各種イベントへの参加、メディアへの露出など、それまであまりなかったかたちでの活動もより積極的に行われるようになった。 |
| ゆずのファンのことを「ゆずっこ」と呼ぶ(これは路上ライブ中に北川が勢いで言ってしまったためという)。 |
| 公式ファンクラブ名は「ゆずの輪」である。 |
| ライブ前には演者と客・スタッフ・警備員含め全員で「ラジオ体操第一」を行い、アンコールのコール代わりにゆずの曲「する~」「贈る詩」「サヨナラバス」「友達の唄」「虹」などが歌われた。 |
| 最近は「贈る詩」が多い)を歌う(観客の誰かが歌い出し、いつしか大合唱)というのが定番となっている。 |
| また、日本では冬至の日に柚子湯に入る習慣があることから、それにちなんで、毎年12月22日には無料のライブを敢行している。 |
| この冬至の日ライブは、現在では珍しい録音録画完全OKのライブとなっている代わりに、ライブ会場は当日朝までシークレットとなっている。 |
| 2010年は警備や場所の問題により、新たな試みとしてYoutubeによる配信(前日のゆずのオールナイトニッポンGOLD終了後のニッポン放送のスタジオで録画、2010年12月31日までの期間限定配信)で行った。 |
| ライブではラッキィ池田などが考案の振り付けを会場全員で踊る「ダンスコーナー」のようなパートが設けられることが多く、「夏色」と並びライブのハイライトとなっている。 |
| ほとんどの曲のアレンジはゆずとプロデューサー・寺岡呼人によるものであったが、2008年のアルバム『WONDERFULWORLD』以降は外注のアレンジャー(蔦谷好位置など)が参加するようになり、アレンジに大きな変化が起きている。 |