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つながりの強いひと
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アルグン
息子
イルハン朝の第4代君主(ハン、在位1284年8月11日-1291年3月10日)。第2代君主・アバカの長男。アバカの側室の1人カイミシュ・ハトゥン(エゲチ)との息子。... |
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フレグ
父
イルハン朝(フレグ・ウルス)の創始者である(在位1260年-1265年)。ペルシア語ではHūlākūkhānと表記される。アバカの父。チンギス・ハーンの子のトルイと、... |
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アジアン
よしもとクリエイティブ・エージェンシー東京本部所属のお笑いコンビ。baseよしもとで活躍していたが、2008年4月を以てbaseよしもとを卒業し、活動の拠点をう... |
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オアシス
イギリスのロックバンド。1991年結成。2009年解散。 |
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包装
ものを包む行為、包む素材、包まれた状態などのことを言う。物流のための貨物包装には梱包(こんぽう)という言葉を用いることが多いが「梱」が常用漢字に含ま... |
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和紙
和紙工芸面 制作・販売
房本デザイン工芸
房本 武義 【ふさもと たけよし】
昭和十二年、大阪市生まれ
祖父は仏像彫刻家、父は彫塑家であり高等学校を卒業... |
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果実
果実(かじつ)生物学上:受粉した雌しべの子房が発達した部分と、その付属器官のことである。単に実(み)とも言う。実用上:果物や野菜として利用される。... |
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手芸
個人的に行う裁縫、刺繍、編み物などの創作活動をいう。受注や販売などの経済活動を伴う場合は「手芸」ではない。基本的に経済活動を伴わない家庭内での生産... |
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ペンダントライト
世界各国の素材を取り入れた、ライトと雑貨が中心の、ハイエンドブランドです。様々なデザインは、世界各国の伝統、素材、文化などを幅広く取り入れた、イン... |
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日光
東日本旅客鉄道(JR東日本)および東武鉄道が新宿駅-東武日光駅間を山手線、宇都宮線(東北線)、東武日光線経由で運行する特急列車である。本項では、同じく... |
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ハーン
父
北アジア、中央アジア、西アジア、南アジアにおいて、主に遊牧民の君主や有力者が名乗る称号。古い時代の遊牧民の君主が名乗った称号カガン(qa&289;an/qaγan... |
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130cm
130cm「鬼まり。」CG公開
■09.11.24
2010年1月29日発売の130cm新作「鬼まり。」のサンプルCGがオフィシャルサイト製品紹介ページで公開された。 現... |
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シルバー
シルバー(Silver)はアメリカ合衆国のウエスト・コースト系バンドで、イーグルス初期のメンバー、バーニー・レドンの実弟、トム・レドンが参加していたことで... |
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ピンク
アメリカ合衆国のシンガーソングライター。本名はAleciaBethMoore。2000年に、R&Bシンガーとしてデビューした。 |
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ダークブラウン
ダンシング キャット(ダークブラウン) 売上個数
42個 ハピネス > ゲーム、おもちゃ > おもちゃ ダンシング キャット(ダークブラウン) (1) めちゃ●ケで... |
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増殖
イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の4作目のアルバム。1980年6月5日にアルファレコードからリリースされた。 |
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太平洋
プロフィール ニックネーム 風車 太平洋(nobuchan) 性別 男性 誕生日 11月13日 住所 茨城県 出身地 茨城県 血液型 B型 婚姻 独身 メッ... |
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シック
1977年にデビューしたアメリカ合衆国のファンク、ディスコ・バンドである。中心メンバーはギターのナイル・ロジャースとベースのバーナード・エドワーズ。英... |
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優雅
日本の歌手、かつて存在したヴィジュアル系バンド・DEViLKiTTYのボーカルであった。DEViLKiTTY解散後、ソロでの活動を開始するが、引退。2ちゃんねる用語を多... |
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腕時計
ベルト(帯、バンド)によって腕に装着することができる小型の携帯用時計である。場所を選ばず時刻を知ることを可能とする基本的機能のほかにさまざまな付加... |
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プロフィール
- アバカとは
- 即位以前
- ジョチ・ウルス及びバラクとの戦い
- クビライ・カアンからの承認
- マムル−ク朝のバイバルス・カラーウーンとの戦い
- 晩年
- 宗室
- 父母
- 正妃(ハトゥン)
- 側室(クマ)
- 男子
- 女子
- 参考文献
- 関連サイト
アバカ(Abaqa/阿八哈、1234年-1282年)は、イルハン朝の第2代ハン(1265年-1282年)。ペルシア語ではآباقاخانĀbāqākhānと表記される。父は初代 ハーンのフレグ・ハン、母は フレグの第5位の妃でスルドゥス部族出身のイェスンジン・ハトゥン。
即位以前
| 1253年に父フレグが西方遠征軍司令に任じられると、アバカは弟ヨシムトらとともにこの西方遠征に従軍した。 |
| 1263年暮れにジョチ・ウルスのベルケとの不和から戦争になり、ノガイがカフカス方面から侵攻してきたが、フレグ西征軍はからくもこれを撃退。 |
| アバカは一旦この後詰めとしてアゼルバイジャン地方に派遣され再度侵攻して来たノガイの諸軍を撃退した。 |
| その前後にフレグは西征軍が実効支配していた諸地方を諸子に統括するよう命じ、アバカはアムダリヤ川河畔に至るにイラク、ホラーサーン、マーザーンダラーンの諸国を委ねられた。 |
ジョチ・ウルス及びバラクとの戦い
| 1265年2月に父フレグが没した時、彼はこのためホラーサーン地方にいたが、ただちにヨシムトが管轄していたタブリーズに上り、フレグの葬儀を済ませると、同年4月にクリルタイを開催し、6月15日に西征軍の王族・諸将に推戴されるかたちでフレグの王位と西征軍全軍を継承し即位した。 |
| イラン全土の諸地域をヨシムトやトブシンなどの兄弟たちに委ね、アフガニスタンやファールス、ケルマーンなどの諸地域は引き続きクルト朝やアルトゥク朝などのアタベク政権、カラヒタイ朝などの諸勢力の安堵を約束し、財務官庁をワズィールのシャムスッディーン・ジュワイニーに、さらにバグダードの経営についてはワズィールの弟で、イラク地方へ派遣されたスンジャク・ノヤンの補佐官となった歴史家アターマリク・ジュワイニーに任せるなどして、諸地方の統治の整備をまず取掛かった。 |
| 翌7月初旬にはノガイの再三に渡る侵攻に対しヨシムトの派遣を行い、これを撃退に成功。 |
| 今度はベルケ自身が親征するところとなりクラ川渡河のためにグルジアのティフリス近郊まで大軍を率いて迫ったが、この地でベルケが急死し、ジョチ・ウルス軍は撤退。 |
| 北方の脅威は一端は納まった。 |
| しかし1269年、東方のチャガタイ・ウルスの当主位をムバーラク・シャーから奪ったバラクが、カイドゥとモンケ・テムルと協定を結び、そのままアムダリヤ川を渡って親征し、ヘラート近郊まで攻め入った。 |
| アバカは自ら諸軍を率いて、1270年7月21日にヘラート南部のカラ・スゥ平原の戦いでこれを迎撃・撃破し、大勝をおさめた。 |
| この戦いに前後してカイドゥと協定を結んで休戦している。 |
クビライ・カアンからの承認
| このカラ・スゥ平原の戦いが終わりアーザルバーイジャーン地方へ帰還した同年11月6日に、マラーゲ南部のチャガトゥ地域での宿営中にクビライからフレグの位を継ぎイラン地域の支配権を委ねてハンとなるようにとの旨を伝える使者が訪れ、勅令(ヤルリグ)と王冠などがもたらされた。 |
| こうして同年11月26日、モンゴル皇帝クビライの承認の許に改めてイルハン朝のハンとして同地で第二の即位を行った。 |
| 同じ時期にジョチ・ウルスのモンケ・テムルからもバラクとの勝利を祝してハヤブサや鷹などの贈物を携えた使者を接見しており、ジョチ・ウルスとの友好を一先ず回復させることが出来た。 |
| こうしてクビライおよびモンケ・テムルとの友好を保ちつつも、カイドゥとも和平を結び東北国境の安定にも一応の成功をおさめた。 |
| しかし、この年の暮から翌年にかけて弟君ヨシムト、トブシン・オグルに加え、生母イェスンジン・ハトゥンが没している。 |
| 母のオルドはこの後自らの第4位の妃で、ケルマーンのカラヒタイ朝の第3代君主スルターン・クトブッディーン・ムハンマドの娘パーディシャー・ハトゥンに委ねている。 |
| 1273年の夏に、アバカはチャガタイ家やオゴデイ家から侵攻を危惧してブハラの住民をホラーサーン地方へ移住させるよう命じたが、ブハラに駐留していた部隊がこれを違えて掠奪と殺戮を行う事件が起きた。 |
| アバカはこれを指揮した部隊長を処罰したが、カイドゥ陣営へ逃亡したマスウード・ベクのマドラサなども軒並み掠奪に晒されるなどブハラの市街地とその周辺は破壊が凄まじく、復興に至るまでこの地域は7年ものあいだ無人状態に陥ったと伝えられる。 |
| 1273年7月6日にはイラン・ホラーサーン総督として辣腕を振るったアルグン・アカが、翌1274年6月24日には大学者ナスィールッディーン・トゥースィーが歿した。 |
マムル−ク朝のバイバルス・カラーウーンとの戦い
| 1275年頃からはエジプトのマムルーク朝のバイバルスらにシリア境域を何度か侵攻を受けはじめるようになった。 |
| 1277年にバイバルスが死去して継承争いが始まるといったんは収束したが、内紛が鎮まってカラーウーンが登場すると、彼による侵攻を受けるようになる。 |
| 1281年にはカラーウーンとシリア領有をめぐって戦ったが敗れた。 |
晩年
| 1282年4月1日、モースル近郊で没し、フレグの墓所であるウルーミーエ湖東岸のシャーフーの大禁地に埋葬された。 |
| 死因はアルコール中毒だといわれる。 |
| もともと酒豪だったが、前年の敗戦でさらに酒の量が増したのではないかといわれている。 |
| 父と婚約の予定であった東ローマ帝国皇帝ミカエル8世パレオロゴスの皇女・マリアと結婚した。 |
| また、自身もネストリウス派のキリスト教徒で、キリスト教に対して親しみがあったため、ビザンツ帝国と結んでマムルーク朝などのイスラム教勢力と対立した。 |
| また、イングランド国王エドワード1世とも交渉を持った。 |
宗室
| 『集史』「アバカ・ハン紀」によると、アバカの息子はアルグンとゲイハトゥの2人で、娘は7人がいたと伝えている。 |
父母
| 母 イェスンジン・ハトゥンييسونجينخاتونYīīsūnjīnKhātūn:スルドス部族出身。 |
| 1266-67年の冬にモンゴル本土にあったフレグの後衛のオルド(アウルク)が妃や王族たちとともにイランに入った時、フレグの正妃クトイ・ハトゥンとともにモンゴル本国からイランに移住したという。 |
| 『集史』アバカ・ハン紀によると、ヒジュラ暦670年ジュマーダー第2月(1272年月1上旬-2月上旬)に死去し、彼女のオルドはパードシャー・ハトゥンに委ねられたという。 |
正妃(ハトゥン)
| オルジェイ・ハトゥンاولجاىخاتونŪljāyKhātūn:フレグ妃。 |
| 引き続きアバカが娶りオルドを引継ぐ。 |
| オイラト部族首長家のトレルチ・キュレゲンとチンギス・カンの第二皇女チチェゲンとの娘。 |
| ドルジ・ハトゥンدورجىخاتونDūrjīKhātūn: 大ハトゥン。 |
| ノクダン・ハトゥンنوقدانخاتونNūqānKhātūn:スルドス部族出身。 |
| クトイ・ハトゥンとともにモンゴル本国からイランに移住したという。 |
| トトカリウト・タタル部族のジョチの娘。 |
| チンギス・ハンの第三皇后イェスルン、第五皇后イェスイ姉妹らの姪にあたる。 |
| アバカの姉妹ボルガン・アカとジャマイの降嫁を受けたジュルマ・キュレゲンの姉妹。 |
| ドルジ・ハトゥンの没後にその後任としてオルドを引継ぐ。 |
| ゲイハトゥの母。 |
| イルトゥズミシュ・ハトゥンايلتوزميشخاتونĪltūzmīshKhātūn:コンギラト部族のノクダン・ハトゥンの没後にその後任としてオルドを受継ぐ。 |
| パードシャー・ハトゥンپادشاهخاتونĪltūzmīshKhātūn:ケルマーンのカラヒタイ朝の君主クトゥブッディーン・ムハンマドの娘。 |
| アバカの生母イェスンジン・ハトゥンのオルドの後任となる。 |
| ブルガン・ハトゥンبلغانخاتونBulghānKhātūn:大ブルガン・ハトゥンとも。 |
| アバカに最も寵愛されたという。 |
| バヤウト部族の有力部将ノカイ・ヤルグチの姪。 |
| ミリタイ・ハトゥンمرتیخاتونMirtayKhātūn:コンギラト部族出身。 |
| チンギスの娘の息子とされるコンギラト部族のムーサー・キュレゲン(タガ・テムルないしトガン・テムルと称する)とフレグ妃クトイ・ハトゥンの姉妹。 |
| デスピナ・ハトゥンدسپنهخاتونDispinaKhātūn:トレビゾンド王の娘と呼ばれる。 |
| トクタイ・ハトゥンتوقتیخاتونTūqtayKhātūn:フレグの側室。 |
| フレグの大ハトゥンであったドクズ・ハトゥンの地位を継がせる。 |
側室(クマ)
| カイミシュ・エゲチقايميشايكاچیQāymīshĪkāchī アルグンの母。 |
| キョクテイكوكتیKūktay:王女トガンチュクの母。 |
| ボウルジン・エゲチبولچينايكاچیBuwulchīnĪkāchī:アバカの五女イル=クトルグ、六女オルジェイタイの生母。 |
| シーリーン・エゲチشيرينايكاچیQāymīshĪkāchī:後にプーラード・チンサンのハトゥンとなる。 |
| トデイ・ハトゥンتودایخاتونTūdāyKhātūn:コンギラト部族の某の娘。 |
| アバカに嫁ぎ王女ユル・クトルグ、ノカイの母となる。 |
| 後にテグデル・アフマド・ハンとアルグン・ハンの妃となった。 |
| ※その他多数の氏名不明の側室がいた。 |
男子
| 長男 アルグン 母カイミシュ・エゲチ。 |
| 次男 ゲイハトゥ 母ノクダン・ハトゥン。 |
女子
| 長女 ユル=クトルグ يولقتلغYūl-Qutlugh:母トダイ・ハトゥン。 |
| ノカイ(不詳)と同母姉妹。 |
| アルグン幕下の有力部将でバイドゥ・ハン選出にも列席することになるイルチダイ・クシュチに降嫁。 |
| 次女 タガイ(トガイ)تغایTaghāy/Tughāy:アバカ、アルグン、ゲイハトゥに代々仕えたチャガン・タタル部族のドラダイ・イデチに降嫁。 |
| 三女 マリカملكهMalik:母ブルガンの伯父ノカイ・ヤルグチの息子、すなわち母方の従兄弟にあたるトガン・ブカに降嫁。 |
| 母ブルガン・ハトゥン。 |
| 四女 トガンチェクطغانچاقṬughānchūq:母キョクテイ。 |
| アルグンの筆頭部将で、オイラト部族出身のイラン総督アルグン・アカの息子アミール・ノウルーズに降嫁。 |
| 五女 イル=クトルグايلقتلغĪl-Qutlugh:母ボウルジン・エゲチ。 |
| フウシン部族のアラブタイ・キュレゲンに降嫁。 |
| 六女 オルジェイタイاولجيتایŪljaytāy:母ボウルジン・エゲチ。 |
| イル=クトルグと同母妹。 |
| 七女 ノチンنوچينNūchīn:降嫁情報など詳しい来歴は不明。 |
| 母ミリタイ・ハトゥン。 |
参考文献
| C.M.ドーソン著『モンゴル帝国史5』(佐口透訳注)東洋文庫298、平凡社、1976年。 |
| 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究序説イル汗国の中核部族』東京大学出版会、1995年。 |
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1253年
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父フレグが西方遠征軍司令に任じられると、ア... |
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1265年
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父フレグが没した時、彼はこのためホラーサー... |
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