| 1879年3月14日、ドイツのウルム市にて、父親ヘルマン・アインシュタイン (HermannEinstein)と母親パウリーネ・コッホ(PaulineKoch)との間に長男として生まれる。 |
| 1880年から1894年の間、ミュンヘンに居住した。 |
| アインシュタインは、5歳頃まであまり言葉を話さなかったと伝えられる。 |
| そのことで、単なる記号処理的な頭脳の働きでなく、全体を把握する能力を養ったという意見もある。 |
| 5歳のときに父親からもらった方位磁石が、自然界の仕組みに対する興味をもたらすきっかけとなった。 |
| また、6歳頃にはヴァイオリンを習い始めた。 |
| ミュンヘンにあるカトリック系の公立学校へ通うものの、学校の校風になじむ事は出来なかった。 |
| 卒業後はミュンヘンのルイトポルト・ギムナジウム(LuitpoldGymnasium)に入学。 |
| しかし、やはり軍国主義的で重苦しい学校の校風になじめなかった。 |
| 9歳の時にピタゴラスの定理の存在を知り、その定理の美しい証明を寝る間も惜しんで考え、そして自力で定理を証明した。 |
| 12歳のときユークリッド幾何学の本をもらい独習。 |
| 微分学と積分学も、この当時に独学で習得したといわれている。 |
| 1894年、父親が事業に失敗したために一家はイタリアのミラノに引っ越すが、ギムナジウムを卒業する必要からアインシュタインはミュンヘンに残される事になる。 |
| しかし軍国主義的な教育を嫌い、結局学校を中退し一家を追ってイタリアへやってきた。 |
| 1895年、スイスのチューリッヒ連邦工科大学を受験するも失敗。 |
| しかしアーラウのギムナジウム(AlteKantonsschuleAarau)に通う事を条件に、来年度の入学資格を得られる事になった。 |
| アーラウの学校の校風はある程度自由が保障されており、さらにこの学校は視覚教育に力を入れていた。 |
| 言語に障害があったアインシュタインに、この視覚教育はよく合っていた。 |
| そして、昔培った視覚能力をそのアーラウでさらに高めた。 |
| それがのちの研究者としての人生に大きく関わることになる。 |
| なお、この頃には兵役義務を逃れるためにドイツ国籍を放棄している。 |
| これにより、以後スイス国籍を取得するまで無国籍となった。 |
| 1896年、ギムナジウムを卒業。 |
| チューリッヒ連邦工科大学への入学を許可される。 |
| 大学では自由な気風と数人の学友、そしてミレーバ・マリッチ(MilevaMarić)という女学生と出会う。 |
| チューリッヒ連邦工科大学は女性に門戸を開いていた当時の数少ない大学のひとつであった。 |
| アインシュタインは大学の講義にはあまり出席せず、自分の興味ある分野だけに熱中し、物理の実験は最低の「1」、電気技術では優秀な「6」の成績をとっている。 |
| 大学時代は、化学の実験中に爆発事故を起こし、学校をパニックに陥れてしまったこともあった。 |
| 1900年、チューリッヒ連邦工科大学を卒業したが、大学の物理学部長ハインリヒ・ウェーバー(HeinrichFriedrichWeber)と不仲であったために、大学の助手になれなかった。 |
| 保険外交員、臨時の代理教員や家庭教師のアルバイトで収入を得ていた。 |
| 1901年、スイス国籍を取得。 |
| スイスもまた兵役義務を課していたが、アインシュタインは扁平足・静脈瘤等の診断からこれを免除される(偏平足は行軍等に支障をきたすとされる)。 |
| 1902年、友人のマルセル・グロスマンの父親の口利きでベルンの、スイス特許庁に3級技術専門職(審査官)として就職した。 |
| 年俸は3,500スイス・フランであった。 |
| ここで特許申請書類の中のさまざまな発明理論や数式を知る機会を得る。 |
| この頃、モーリス・ソロヴィーヌ(MauriceSolovine)、コンラット・ハビヒト(ConradHabicht)らと「アカデミー・オリンピア(AkademieOlympia)」を設立した。 |
| その他、父親ヘルマンが死去。 |
| 1903年1月6日にミレーバと結婚。 |
| 翌年には長男ハンスを授かる。 |
| 1905年、博士号を取得すべく「特殊相対性理論」に関連する論文を書き上げ、大学に提出した。 |
| しかし内容が大学側に受け入れられなかったため、急遽代わりに「分子の大きさの新しい決定法」という論文を提出し、受理されている。 |
| この論文は「ブラウン運動の理論」に発展した。 |
| アインシュタインは「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関連する5つの重要な論文を立て続けに発表した。 |
| バスに乗車中にベルンの時計台の針が不動に見えることから着想した無名の特許局員が提唱した「特殊相対性理論」は当初、周囲の理解を得られなかったが、マックス・プランクの支持を得たことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。 |
| 1907年、有名な式E=mc²を発表している。 |
| この年には、箱の中の観測者は、自らにかかる力が慣性力なのか重力なのか区別ができないという、後の一般相対論の基礎となるアイディア(等価原理)を思いつく。 |
| 200px|frame|1911年のソルベー会議でのアインシュタイン。 |
| 1910年、プラハ大学の教授となる。 |
| 次男エドゥアルト(Eduard)誕生。 |
| 1913年、プロシャ・アカデミー(PreußischeAkademiederWissenschaften)の会員となる。 |
| 一般相対性理論の立証のために1914年クリミア半島でアメリカ人ウィリアム・キャンベルに依頼し皆既日食観測を試みるも曇天で、第一次世界大戦開戦でドイツのスパイと誤認され捕虜となる。 |
| 1919年、皆既日食において、太陽の重力場で光が曲げられる(いわゆる、重力レンズ効果)事がケンブリッジ天文台のアーサー・エディントンの観測により確認されたが理論の立証にはまだ不充分であった。 |
| なお、この年の2月に親友のフリッツ・ハーバーの仲裁も空しくミレーバと離婚し、6月にはエルザと再婚している。 |
| この間、理論の証明は日食観測によるよりも、数式上の確度の立証に移り、水星軌道の変則性から、ニュートンの理論の誤りを数学者のダフィット・ヒルベルトとほぼ同時に発見したが、ヒルベルトは、その功績をアインシュタインに譲っている。 |
| 1921年、カイム・ワイズマンの提案により、エルサレムに創立予定のヘブライ大学の建設資金を集める為にアメリカを訪問し、その帰りにはイギリスも訪問した(ここではニュートンの墓を訪ねた)。 |
| 1922年3月にフランスを訪れた他、10月には日本への訪問を目的に夫婦で客船「北野丸」に乗船。 |
| 当時、アインシュタインが構築した相対性理論について「人類に大きな利益をもたらす様な研究と言えるのかと言えば疑問」との声、更には「ユダヤ的」であるとするフィリップ・レーナルト或は、ヨハネス・シュタルクなどノーベル物理学賞受賞者らの批判があった。 |
| 1925年、インドの物理学者サティエンドラ・ボースからの手紙をきっかけとして、ボース=アインシュタイン凝縮の存在を予言する論文を発表。 |
| 1935年、ボリス・ポドリスキー、ネイサン・ローゼンと共にアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスを発表する(量子力学と相対性理論の矛盾)。 |
| 1939年、当時のアメリカ合衆国大統領であったフランクリン・ルーズベルト宛ての、原子力とその軍事利用の可能性に触れた手紙に署名。 |
| アインシュタインはハンナ・アーレントらユダヤ系知識人と連名で、訪米中のメナヘム・ベギンとその政党ヘルート(Herut)をファシストと呼び、イスラエルのデイル・ヤシンの虐殺事件などのテロ行為を非難する書簡をニューヨーク・タイムズ紙上に発表する。 |
| アインシュタインの死後、同年7月9日には彼が生前に署名したラッセル=アインシュタイン宣言が発表された他、12月17日にはプリンストンで彼を偲ぶコンサートが開かれ、モーツァルトのピアノ協奏曲第26番、バッハのカンカータ第106番などの曲目が演奏された。 |