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プロフィール
- アントニオ・ヴィヴァルディとは
- 誕生から幼年期と青年期
- 第1期 音楽院の教師としての活動(1703年から1713年)
- 第2期 オペラ作曲家としての活動(1713年から1723年)
- 第3期 人気と円熟期(1723年から1740年)
- 晩年とその死
- 年表
- 有名な作品
- ヴィヴァルディが出版した作品
- 作品一覧
- 複数の楽器のための協奏曲
アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ(AntonioLucioVivaldi,1678年3月4日-1741年7月28日)はヴェネツィア出身のカトリック司祭、バロック末期の作曲家。作品は普通、RV番号(リオム番号)で整理されるが、この他にパンシェルル番号(P番号)、ファンナ番号(F番号)が存在する。イタリアのヴェネツィアに生まれ、オーストリアのウィーンで没した。サン・マルコ大聖堂付きオーケストラの一員であった、理髪師でヴァイオリニストの父親からヴァイオリンを学ぶ。10歳より教会附属の学校に入り、25歳で司祭に叙階される。赤毛であったことから「赤毛の司祭」と呼ばれるようになった。司祭になった年にヴェネツィアのピエタ慈善院付属音楽院(Osp ...
誕生から幼年期と青年期
| 1678年3月4日、イタリアのヴェネツィアに生まれる。 |
| ヴィヴァルディが誕生した当日はヴェネツィアに大地震が発生し、それと関連して生後まもなく命の危機に瀕しており、洗礼はすぐには行われず、2ヶ月後の5月6日に行われたと発見された資料(証明書)から判明されている。 |
| 父ジョヴァンニ・バッティスタは有能なヴァイオリニストであり、同時に家庭の生計を立てていた。 |
| 父は「赤毛」のあだ名で呼ばれ、広く知られていたという。 |
| 1688年にサン・マルコ大聖堂近辺にあるサン・ジェミニアーノ教会付属学校に入学する。 |
| ヴィヴァルディは生まれつき喘息で、生涯に亘って持病として悩まされる。 |
| 持病によって親元から学校に通うことが例外として許可され、父のもとでのヴァイオリンの勉強を始める。 |
| 1693年、15歳で僧籍に入り、聖職者となるための教育を受け始め、剃髪して最下級の聖職者となる。 |
| そして10年後の1703年の3月25日(25歳)に司祭に叙任される。 |
第1期 音楽院の教師としての活動(1703年から1713年)
| 1703年に司祭に叙階され、聖職者として活動していた。 |
| ただしこの時期以降からフーガなどの下書きを練習していたといわれ、また10年間は家族のもとで一緒に過ごしていたという。 |
| しかし司祭になったものの、ヴィヴァルディは間もなくして持病である喘息が原因でミサを司式することができなくなり、祭壇から離れることを余儀なくされる。 |
| 祭壇から離れたのちは、音楽活動を専念するようになり、同年の9月頃にピエタ音楽院(ピエタ慈善院付属音楽院、ピエタ病院付属音楽院とも)でヴァイオリンの教師として教鞭をとり、奉職し始める。 |
| ここでは協奏曲のほかに宗教作品なども多く作曲する。 |
| また1704年にはヴィオラ・アッリングレーゼも教えている。 |
| 1703年以降から1740年にかけて、この音楽院と関係を持つ。 |
| しかし一時的に解職されているが数年後に復職している。 |
| ピエタ音楽院で作曲と合奏を教える義務を任じられたヴィヴァルディは、1705年に全12曲からなる『トリオ・ソナタ集』を作曲し、これらを「作品1」として出版する。 |
| この『トリオ・ソナタ集』は現在知られているヴィヴァルディの作品の中では最も古いものであるとされており、トリオ・ソナタの先駆者として有名なアルカンジェロ・コレッリの影響を受けて作曲された。 |
| 作品はヴェネツィアの貴族アンニバレラ=ガンバラ伯に献呈されている。 |
| 1709年の2月頃にピエタ音楽院との契約が(一時的ではあったが)破棄されている。 |
| 破棄された理由については不明である。 |
| この年に「作品2」として出版された12曲の『ヴァイオリンソナタ集』を作曲する。 |
| 1711年の9月にピエタ音楽院との契約が再び結ばれ、以前の地位に戻ることができた。 |
| 「作品3」として『調和の霊感』が出版される。 |
| 1713年にピエタ音楽院の最高責任者であるフランチェスコ・ガスパリーニ(FrancescoGasparini,1668-1727)が職を辞した際、ヴィヴァルディに作曲と指揮の仕事を音楽院側から委ねられる。 |
| この当時は「合奏長」となって活動した。 |
| 同年に最初のオペラ『離宮のオットー大帝』がヴィチェンツァで初演される。 |
| サンタンジェロ劇場の興行主となる。 |
第2期 オペラ作曲家としての活動(1713年から1723年)
| 1714年から1718年の間は、ガスパリーニの離職によって新たな地位を委ねられたが、ヴィヴァルディは「合奏長」の地位にとどまって職を続けた。 |
| これと同時期にオペラの作曲に挑戦し、オペラ作曲家として活動し始めた時期でもあった。 |
| この期間に10作以上のオペラをヴェネツィアで上演したと伝えられる。 |
| また1713年以降になってヴィチェンツァに旅行しており、音楽院の勤務のために旅行は多く行っていないが、ほとんどが自作のオペラの上演が目的であった。 |
| 1720年から1723年までの3年間はマントヴァに滞在し、同地で3作ものオペラを上演する。 |
| この後にヴィヴァルディはマントヴァ総督のヘッセン=ダルムシュタット辺境伯の宮廷音楽家となっている。 |
| これらの旅行のために、ヴェネツィアのピエタ音楽院では不在がちとなるが、音楽院にとってヴィヴァルディは大切な人材であり、必要不可欠な人物でもあった。 |
| 1723年7月にピエタ聖会議はヴィヴァルディに対してピエタのオーケストラのために協奏曲を月に2曲提供すること、旅行中は楽譜を郵送すること、リハーサルを3回ないし4回ほど指導するよう要求した。 |
| この間における作品群は、1714年に作曲したオラトリオ『ファラオの神モイゼ』(RV.643,紛失)が同年に初演され、この頃までに『ラ・ストラウァガンツァ』と題する12曲のヴァイオリン協奏曲集が「作品4」として出版される。 |
| また1716年に現存する唯一のオラトリオ『勝利のユディータ』が初演される。 |
| また1721年頃に、ザクセン公のヴァイオリニストとして活躍していたピゼンデルと親交を結び、彼のためのヴァイオリン協奏曲をいくつか作曲する。 |
第3期 人気と円熟期(1723年から1740年)
| ヴィヴァルディの書簡の中で、ヨーロッパの各都市を旅行していることが述べられており、この書簡で窺えるように、この時期はほとんど旅行に費やしている。 |
| 1723年(ないし1724年)から1725年頃にかけてローマを訪れ、同地で3曲の自作のオペラを上演したとされる。 |
| なおローマ教皇の御前で演奏されたといわれる。 |
| そして次にウィーンに赴き、ここでもオペラを3曲ほど上演したという。 |
| 1726年に再びサンタンジェロ劇場の作曲家兼音楽監督を1728年まで務める。 |
| 1728年に神聖ローマ皇帝のカール6世に謁見する機会ができ、協奏曲集『ラ・チェトラ』を献呈する。 |
| 1730年と1731年に、ヴィヴァルディのオペラがプラハで上演され、ヴィヴァルディはプラハに向かい、上演に立ち会ったという。 |
| 1733年から1735年までを最後に、ヴィヴァルディは興行師の仕事を止め、イタリアの各小都市にオペラの上演と興行活動をしていった。 |
| この時期の作品群では、1725年に『四季』を含むヴァイオリン協奏曲集『和声と創意の試み』が「作品8」として出版。 |
| 1727年に『ラ・チェトラ』と題する12曲からなる協奏曲集が出版される。 |
晩年とその死
| しかし、人気とその名声は翳りを見せ始める。 |
| 収益は司祭になった頃とほぼ同額であったといわれ、これはオペラの興行に集中するばかり、ピエタの理事会からの信用を失墜したことといわれている。 |
| 止む無くヴィヴァルディは収益を確保するため、オペラの作曲と上演をすることになる。 |
| しかし様々なトラブルが起こり、フェルラーラで興行をするも次々に失敗を重ね、貧困の生活を余儀なくされ、挫折の日々を送る。 |
| さらに追い打ちをかけるように、1738年にピエタ音楽院を辞職するに至る。 |
| 1740年にかねてから抱いていたウィーンへの移住を決心し、6月28日に到着する。 |
| しかしヴィヴァルディの人気はすでに失われ、もはや完全に過去の産物として扱われていた。 |
| 失意のうちに、ヴィヴァルディは体調を崩し、1741年7月28日にケルントナートーア劇場の作曲家の宿舎で永眠。 |
| 死因は内臓疾患であるといわれるが、持病である喘息の悪化によるものとも考えられている。 |
| 遺体は貧民墓地に埋葬されたが、この墓地は後年取り壊され、現在はウィーン工科大学の構内になっている。 |
年表
| right|200px|thumb|有名な絵だが、これがヴィヴァルディのものかは詳しく分かっていないF.M.LaCaveによる肖像画(1723年)。 |
| 1678年-(0歳)ヴェネツィアに生まれる。 |
| 1688年-(10歳)サン・マルコ大聖堂近くのサン・ジェミニアーノ教会付属学校に入る。 |
| 1693年-(15歳)剃髪して最下級の聖職者となる。 |
| 1703年-(25歳)司祭となる ピエタにヴァイオリン教師として奉職し始める。 |
| 1704年-(26歳)ピエタで、ヴァイオリンの他にヴィオラ・アッリングレーゼを教え始める。 |
| 1705年-(27歳)作品1(12曲のトリオソナタ集)がヴェネツィアで出版される。 |
| 1711年-(33歳)作品3(調和の霊感)がアムステルダムで出版される。 |
| 1713年-(35歳)最初のオペラ『離宮のオットー大帝』をヴィチェンツァで初演する。 |
| 1716年-(38歳)オラトリオ『勝利のユディータ』を初演。 |
| 1723年~1725年- (45歳-47歳)ローマで幾つかのオペラを初演、ローマ教皇御前演奏。 |
| 1730年-(52歳)彼のオペラがプラハで上演される。 |
| 1735年-(57歳)再び「協奏曲長」に任ぜられる。 |
| 1740年-(62歳)3月21日にヴェネツィアを訪問中だったザクセン選帝侯の為に協奏曲3曲とシンフォニア1曲の作曲をピエタから依頼される。 |
| 1741年-(63歳)遅くとも6月28日にはウィーンに到着。 |
| そして7月28日、ウィーンのケルントナートーア劇場専用の作曲家宿舎で内臓疾患により客死。 |
| 遺体は貧民病院の墓地に埋葬されたが、後世この墓地は取り壊され、現在はウィーン工科大学の構内に変わっている。 |
有名な作品
| 四季(Lequattrostagioni(TheFourSeasons))。 |
| 1725年に出版されたヴァイオリン協奏曲集《和声と創意の試み》(Ilcimentodell'armoniaedell'invenzione)の第1番から第4番までを指す。 |
| しかし、部分的にはコレッリ以来の合奏協奏曲のスタイルも含んでいる(例えば7番、11番など)。 |
| 後にJ.S.バッハが、この曲集のうち第3番、第9番、第12番をチェンバロ独奏用(BWV978、972、976)に、第8番、第11番をオルガン独奏用(BWV593、596)に、第10番を4台のチェンバロと弦楽合奏のため(BWV1065)に編曲した。 |
ヴィヴァルディが出版した作品
| 作品3、4、8、9はすべて献呈辞つきで王侯貴族に献呈されているが、献呈辞のない作品5、6、7、10、11、12のうちのいくつかは、出版社がヴィヴァルディの了解を得ることなく出版した可能性が高い。 |
| 以前は作品13が存在するとされていたが、後年の研究でシェドヴィルがヴィヴァルディの名をかたって出版したものであることが判明した。 |
作品一覧
| right|thumb|200px|肖像画|P.L.ゲッツィ(P.L.Ghezzi)によるカリカチュア(1723)。 |
複数の楽器のための協奏曲
| ヴァイオリン、2本のオーボエ、2本のリコーダーとファゴットのための協奏曲ト短調『ドレスデンのオーケストラのために』RV.577。 |
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1688年
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サン・マルコ大聖堂近辺にあるサン・ジェミニ... |
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1693年
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15歳で僧籍に入り、聖職者となるための教育を... |
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