| 初来日は1970年。 |
| まだアメリカで注目を浴びる前の無名時代、吉原功にスカウトされモンスター・ロシモフのリングネームで国際プロレスへ参戦。 |
| この時出会ったバーン・ガニアによって寝技の訓練を受ける。 |
| これによって大きな体を活かした技だけでなく、グラウンドでは弓矢固めなどの高等技も軽々とこなすようになる。 |
| 日本ではヒールとしての活動だったが、前述のようにその後のアメリカではベビーフェイスとして活動した。 |
| もっとも日本でも、ザ・シークやフレッド・ブラッシーのようなスタイルのヒールを演じていたわけではなく、ジャイアント馬場をも凌ぐ余りの巨体故にヒール扱いされてしまったものである。 |
| その後、日本でのリングをWWWFと提携していた新日本プロレスへ移し、アントニオ猪木とも対戦(猪木とは新日本参戦後期に何試合かタッグを組んだこともある)。 |
| その猪木との1974年2月の初対戦では、当時のマネージャー、フランク・バロアがロープに飛んだ猪木の足を取ってダウンさせジャイアント・プレスでフォール勝ち。 |
| その後の対戦は猪木が掛けたキーロックをアンドレが軽々と持ち上げる、アンドレが掛けたカナディアン・バックブリーカーを猪木がロープを蹴って返しリバーススープレックスで投げるというムーブが定着した。 |
| 1982年にはMSGシリーズで優勝(新日本のシングル・リーグ戦で外国人の優勝はこれが初めて)。 |
| 実況アナウンサーである古舘伊知郎が、大巨人、巨大なる人間山脈、一人民族大移動などの表現を使ったことから、これらがアンドレのニックネームとなった古舘はこの他にも「一人というには大きすぎる。 |
| 二人といったら世界人口の辻褄が合わない」「人間というより化け物といった方がいいような」「都市型破壊怪獣ゴジラ」「怪物コンプレックス」「一人大恐竜」「ガリバーシンドローム」といった形容詞も使用している。 |
| 新日本プロレス登場末期には、覆面を被り、ジャイアント・マシーン(GiantMachine)と名乗って出場していたこともある。 |
| また新日本参戦末期には将軍KYワカマツが悪役マネージャーに就いた。 |
| なおマシーン軍団はWWFでもコピーされたため、アメリカでも同様のキャラのまま戦っている。 |
| 晩年まで履いていた黒もしくは青のワンショルダー・タイツは、この頃の名残である(それまでは青や緑や赤のショートタイツを着用)。 |
| また、ジャイアント・マシーンの正体はいわずもがなだったが、相棒であったスーパー・マシーン(正体はマスクド・スーパースター)については、WWFオフィシャル発表では「北海道生まれの日本人」ということにされており、プロモーション用のインタビューでも珍妙な日本語を話していた。 |
| また、アンドレは国際プロレスに特別な思い入れがあったようで、新日本に1974年より本格参戦した後も同年6月と1979年7月に国際にも特別参加したことがある(1979年参戦時にはラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座にも挑戦)。 |
| 1981年9月23日、新日本の田園コロシアム大会で行われたスタン・ハンセンとの一騎打ちは今もって日本プロレス史上最高の外国人名勝負と言われる。 |
| この頃のアンドレはスピード・パワーともに全盛期であり、アントニオ猪木ですら不意をついた形でのリングアウト勝ちを拾うのが精一杯であった。 |
| ハンセンはそのアンドレに臆することなく、真正面からパワーでぶつかった。 |
| 試合内容はおよそ人間が対決しているとは思えないほどの迫力であり、引き分け後の再試合を含め延べ二試合でハンセンはアンドレを二度投げた(一回目はボディスラム、二回目は一本背負い気味に)。 |
| また、ハンセンの命綱である左腕を執拗に殺しにかかるアンドレの巧みなリングワークに対し、ハンセンがそれを跳ね返してウエスタン・ラリアットでアンドレを場外に叩き落すなど、試合の基本的なストーリーも高いレベルにあった。 |
| 試合結果は両者リングアウト引き分け後の再試合で、アンドレがレフェリーのミスター高橋に暴行を加えハンセンの反則勝ちとなったが、結果に納得のいかない両選手による試合後の乱闘も含めて、高いエンターテイメント性を有した試合となった。 |
| 1990年4月13日の日米レスリングサミットで、久々に日本マットに登場し馬場と日米大巨人タッグを結成(大巨人コンビ)。 |
| 同年9月30日、馬場のデビュー30周年記念試合でタッグながら初対決してからは全日本へ主戦場を移し、1992年10月21日の全日本・日本武道館大会「全日創立20周年記念試合」馬場&ハンセン&ドリーvs鶴田&アンドレ&ゴーディ戦では、アンドレvsハンセンの対決が再び実現。 |
| 全盛期の動きとは程遠いアンドレだったが、ハンセンの渾身のウエスタンラリアットを喰らっても倒れず、ロープにもたれる程度に踏み留まってみせるなど、最後の最後まで怪物ぶりを見せつけた。 |
| アンドレはその長身から何処へ行っても好奇の目で見られることが多かったのに加え、1970年代の日本ではまだ外国人が珍しかった時代でもあることが重なり、新日本プロレスへ参戦していた頃のアンドレは非常にナーバスであり、彼の悩みが周囲になかなか理解されず、自然とアンドレは憎まれ役へシフトしつつあった。 |
| そして自分の立場には徹底しており、ヒールとしてのイメージが損なわれることを嫌がり、あえてファンのサインも断っていた(ヒールでもリング外でのファンサービスに応じるレスラーは多いが、アンドレは敢えて避けていたという)。 |
| リング内ではまさに全盛期の活躍であったが、対照的に日本でリング外におけるアンドレのインタビューやプライベート等を収めた記事は非常に少ない。 |
| ただし初来日のきっかけを与えてくれた、旧国際プロレス関係者は日本におけるアンドレの数少ない理解者であったため、新日本プロレスへ参戦していた時も水面下で交流が続いていた。 |
| 一転して全日本プロレスへ参戦していた頃のアンドレは、馬場とコンビを組んでいたこともあって、国際・新日本時代とは異なり完全なベビーフェイスであり、全日本登場第1戦から出番のたびに大アンドレ・コールで迎えられ、アンドレも笑顔でファンに応じたり、また登場時での花束贈呈の時は、受け取ると即座にブーケトスの様に後方の客席に花束を投げてプレゼントしたり、コールの時には二本指を立てて腕を上げるアピールを見せていた。 |