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つながりの強いひと
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シャルル10世
復古王政期のブルボン朝最後のフランス国王(在位:1824年9月16日-1830年8月2日)。ルイ16世とルイ18世の弟で、即位以前にはアルトワ伯爵の称号で呼ばれ、フ... |
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アンリ4世
ブルボン朝初代のフランス国王(在位:1589年8月2日-1610年5月14日)、およびナバラ国王(在位:1572年6月9日-1610年5月14日)。ユグノー戦争で叔父コンデ公... |
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ルイ14世
ブルボン朝第3代のフランス国王(在位:1643年5月14日-1715年9月1日)。ルイ13世の長子。妃はスペイン国王フェリペ4世の娘マリー・テレーズ(マリア・テレサ... |
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フランチェスコ1世
両シチリア王(在位:1825年-1830年)。先王フェルディナンド1世とマリーア・カロリーナ(神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの娘)との息子。1806... |
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ルイ・アントワーヌ
ルイ・アントワーヌ(LouisAntoine,ducd'Angoulême;1775年8月6日-1844年6月3日)はフランスの王族。アルトワ伯シャルル、後のフランス王シャルル10世と妃マリ... |
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マリー・テレーズ
引き継ぐ者
フランス王太子ルイ・アントワーヌ(シャルル10世の長男)の妃で、アングレーム公爵夫人。父はルイ16世、母はマリー・アントワネット。 |
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カルロ3世
アンジュー家出身のナポリ王(在位:1382年-1386年)及びハンガリー王(カーロイ2世、II.Károly,在位:1385年-1386年)。ナポリ王ロベルトの末弟ドゥラッツォ... |
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オーギュスタン=ルイ・コーシー
コーシーは多面体に関するオイラーの定理に最初の証明を与え、また、置換計算を発展させることで群論の誕生に影響を与えた。解析学では、コーシーはそれまで... |
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フランソワ1世
ヴァロワ朝第9代フランス王(在位:1515年-1547年)。シャルル5世の曾孫でルイ12世の従兄に当たるアングレーム伯シャルル・ドルレアンと、サヴォイア公フィリ... |
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藤江れいな
日本のアイドルであり、女性アイドルグループAKB48チームKのメンバーである。千葉県出身。イトーカンパニー所属。 |
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ルイ16世
ブルボン朝第5代のフランス国王およびナバラ国王(在位:1774年5月10日-1792年8月10日)。ルイ15世の孫。王妃は神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレ... |
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ルイ18世
復古王政期のブルボン朝第6代のフランス国王(1814年4月6日-1815年3月20日、1815年7月8日-1824年9月16日)。ルイ16世の弟である。 |
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マリー・テレーズ・ド・モデーヌ
引き継ぐ者
モデナ公国の公女、オーストリア=エステ大公女。モデナ公フランチェスコ4世の長女で、フランス・ブルボン家の王位継承者であるボルドー公・シャンボール伯ア... |
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フェルナンド7世
フェルナンド7世(FernandoVII,1784年10月14日-1833年9月29日)はスペイン国王(在位:1808年、1813年-1833年)である。 |
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ルイ13世
ブルボン朝第2代のフランス国王(在位:1610年5月14日-1643年5月14日)。初代アンリ4世の子。母はマリー・ド・メディシス。ブルボン朝創成期の王である。父王... |
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アンリ2世
ヴァロワ朝第10代のフランス王(在位:1547年-1559年)。フランソワ1世と王妃クロード・ド・フランス(ルイ12世の王女)の次男。メディチ家出身のカトリーヌ... |
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オルレアン
オルレアン(、オルレアン)、フランスの中部に位置する都市で、サントル地域圏の首府、ロワレ県の県庁所在地である。パリの約130km南西に位置する。 |
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ルイ15世
ブルボン朝第4代のフランス国王(在位:1715年9月1日-1774年5月10日)。1715年に曾祖父ルイ14世の死により、わずか5歳で即位し、ルイ14世の甥に当たるオルレ... |
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マリア・テレジア
神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年-1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ベーメン女王(... |
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フランソワ2世
ヴァロワ朝第11代フランス王(在位:1559年-1560年)。父はアンリ2世、母はカトリーヌ・ド・メディシスで、シャルル9世、アンリ3世の兄である。スコットラン... |
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プロフィール
- アンリ・ダルトワとは
- 生い立ち
- 七月革命と祖父からの譲位
- 変動するフランス政体と王政復古運動
- 王政復古の失敗
- 死と後継者
- 参考文献
アンリ・シャルル・フェルディナン・マリー・デュードネ・ダルトワ(HenriCharlesFerdinandMarieDieudonnéd'Artois,1820年9月29日-1883年8月24日)は、フランス王 シャルル10世の孫で、フランス・ブルボン家最後の王位継承候補だった人物である。レジティミスト(ブルボン王朝支持者)たちからは アンリ5世と呼ばれたが、王政復古を実現することなく没した。現在では、単にシャンボール伯(ComtedeChambord)と呼ばれることも多い。
生い立ち
| アンリは、シャルル10世の次男ベリー公シャルル・フェルディナンと両シチリア王女マリー・カロリーヌの間に生まれた。 |
| 父ベリー公はアンリが生まれる7ヶ月前に暗殺され、ブルボン王家直系の男子が途絶えると危惧された矢先に誕生したため、アンリは「奇跡の子」ともてはやされた。 |
| 彼は誕生から祖父の譲位まではボルドー公の称号を持ち、亡命中にシャンボール城にちなんだ儀礼称号「シャンボール伯」を名乗った。 |
七月革命と祖父からの譲位
| 1830年8月2日にシャルル10世はアンリのために王位を譲った。 |
| 次の王位は本来シャルル10世の長男アングレーム公ルイ・アントワーヌ(「ルイ19世」)が継ぐべきはずであったが、アングレーム公は父シャルル同様不人気な上に子供がいなかったため、すぐさま甥であるアンリへの譲位に賛同する連署を行わなければならなかった。 |
| その時以降、アンリの支持者たちは彼を「アンリ5世」と呼んだ。 |
| しかし、議会は王位継承者としてブルボン家傍系オルレアン家のルイ・フィリップを指名した。 |
| こうして「アンリ5世」の即位は立ち消えとなった。 |
| シャルル10世らブルボン王家の一族は同年8月16日に亡命することとなった。 |
| 1832年にはアンリの母マリー・カロリーヌがフランス西部で反乱を扇動しようとしたが、失敗に終わった。 |
変動するフランス政体と王政復古運動
| 1836年に祖父シャルルが没し、1844年に伯父ルイ・アントワーヌが没すると、アンリはブルボン家の家長となった。 |
| 「アンリ5世」の戴冠を目指すレジティミストたちは、七月王政期、第二共和政期、第二帝政期を通じて、常に政権の対抗軸であり続けた。 |
| 1871年に、普仏戦争敗戦を受けて第二帝政が崩壊した。 |
| オットー・フォン・ビスマルクは、フランクフルト条約の交渉の下地づくりとして選挙を行わせた。 |
| この時の選挙では王党派が議会の多数を占めたが、レジティミストとオルレアニスト(オルレアン家支持者)に二分されていた。 |
| しかし、この議会での王政復古を実現するために両派で交渉が行われた結果、シャンボール伯アンリがオルレアン家のパリ伯フィリップ・ドルレアン(ルイ・フィリップ王の孫)よりも継承順位が上位であるという合意がなされた。 |
| ただしこの時点で、オルレアニストと一部のレジティミストの間では、妻マリー・テレーズ・ド・モデーヌとの間に子のいないアンリの後継者問題も認識されてはいた。 |
王政復古の失敗
| ともあれ、1873年にはシャンボール伯のフランス王即位は必至の情勢となっており、伯は意気揚々とパリ入市を果たした。 |
| シャンボール伯は王党派のパトリス・マクマオン大統領に先導されて議会に入り、歓呼で迎えられる形で王として認められることを思い描いていたが、彼自身の頑迷さがそれらを水泡に帰させた。 |
| シャンボール伯は王になるに当たり、白旗(フランス王国旗)を棄てて三色旗を受け入れることを求められたが、断固として拒否した。 |
| 彼にとってそれを受け入れることは、フランス革命の精神を継承することに繋がったからである。 |
| かくして、王政復古の最大の好機は去った。 |
| オルレアニストと一部の失望したレジティミストは、より駆け引きに長けたパリ伯フィリップを王位継承候補とするために、シャンボール伯の没後に期待をかけることにし、ひとまずは第三共和政に統治を委任することを決定した。 |
| しかし、10年後の1883年にシャンボール伯が没すると、世論は共和政容認が大勢となり、選挙でも共和派が多数を占めた。 |
| この結果、王政復古の望みは潰えて「共和政」の名が公的に現れるようになった。 |
死と後継者
| 1883年、シャンボール伯は亡命先のフロースドルフ(Frohsdorf,オーストリア)で死去した。 |
| 遺体はゴリツィアに葬られた(ゴリツィアは第二次世界大戦後に分割され、その場所は現在スロベニアの都市ノヴァ・ゴリツァとなっている)。 |
| シャンボール伯には子供がおらず、シャンボール伯未亡人マリー・テレーズとレジティミストの一部はサリカ法に基づき、スペイン・ブルボン家のモンティソン伯フアン・カルロスをブルボン家男系の長系継承者として、シャンボール伯の後継者に選んだ。 |
| カルリスタのスペイン王位請求者「フアン3世」でもあったモンティソン伯はこれを受けて、新たに「フランス国王ジャン3世」とも称することとなった。 |
| しかし、オルレアニスト側でもパリ伯を「フランス国王フィリップ7世」として支持し、レジティミストの一部もこれに合流した。 |
| このことが両者の対立を煽ることとなった。 |
参考文献
| 高村忠成著【2003】『近代フランス政治史』 北樹出版。 |
| Jean-FrancoisChiappe,LeComtedeChambord,1999,Perrin。 |
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1830年
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シャルル10世はアンリのために王位を譲った |
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1832年
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アンリの母マリー・カロリーヌがフランス西部... |
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