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| 1992年7月11日の対福岡ダイエーホークス17回戦(平和台球場)で、左翼手・村上信一に代わって守備で「鈴木一朗」として1軍初出場を果たした。 |
| 翌日対ダイエー戦で初スタメン出場し、木村恵二の放った直球を右翼へ打ち返し、プロ初安打を記録した。 |
| この年は打率.366でウエスタン・リーグの首位打者を獲得しながらも、土井正三・小川亨などの1軍首脳陣から振り子打法を否定され、「足の速さを活かすように」と内野安打狙いの打撃方法や、山内一弘のような内角打ちを指示されるが意見や指導が合わずhttp://sankei.jp.msn.com/sports/mlb/090416/mlb0904161835028-n1.htm、シーズン終盤にスタメン起用される機会は増えたものの、一軍に定着することは無かった。 |
| 同年のジュニアオールスターでは、同点の8回に有働克也から代打決勝本塁打を放ってMVPと賞金100万円を獲得するが、この賞金全額を神戸市の養護施設に寄付した(2軍選手でこのことをしたのはイチローが初)。 |
| 1992年と1993年でプレーしたウエスタン・リーグでは、2シーズンにまたがり46試合連続安打を記録(1シーズンでは30試合)。 |
| 1993年は打率.371を残したが規定打席に少し足りず、もし規定打席に達していれば首位打者になる可能性があった(1993年のウエスタン・リーグ首位打者の打率は.346)。 |
| 同年オフにはハワイ・ウィンターリーグに派遣され、「ヒロ・スターズ」に所属して優勝し、ウィンター・リーグ初のMVPに選ばれた。 |
| カウアイのヴィディンハ・フィールドでは推定飛距離500フィート(152メートル)の本塁打を打ち、地元では「新幹線ホーマー」と呼ばれていた。 |
| 1993年の開幕はスタメンに起用され、6月12日の対大阪近鉄バファローズ戦(長岡市悠久山野球場)では野茂英雄からプロ初本塁打を放つ。 |
| その後、6月23日まではスタメン起用されるが、ほどなくして二軍行きを命じられる。 |
| 二軍生活を余儀なくされたイチローは、同年の秋に河村健一郎と、二人三脚で日本時代のイチローの代名詞ともなる「振り子打法」を作り上げた。 |
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| 監督に招聘された仰木彬はイチローの類い稀な打撃センスを見抜くと、登録名を当初の「鈴木」から「イチロー」に変更させ、一軍の二番打者に抜擢。 |
| 打撃方法も新井宏昌に理解され、レギュラーとして活躍。 |
| 4月末から1番打者に定着し、5月から8月にかけて日本プロ野球新記録となる69試合連続出塁を記録した。 |
| 9月11日には日本プロ野球タイ記録の1試合4二塁打を記録すると同時に、1950年に藤村富美男が作ったシーズン最多安打記録191本に並んだ。 |
| 次の試合でシーズン最多安打記録を44年ぶりに更新し、同月の122試合目には日本プロ野球史上初となるシーズン200本安打の偉業を達成した。 |
| 最終的に安打数も210本(当時の日本プロ野球記録、2010年にマット・マートンが214本を記録したため、現在はパ・リーグ記録)まで延ばし、この活躍で安打数が話題となったため、連盟によって同年から「最多安打」が連盟表彰のタイトルとされた。 |
| 打率では、プロ野球史上初の4割打者誕生はならなかったものの、130試合制のなかで124試合目終了時まで3割9分台(.3904)を堅持。 |
| 最終的にはパシフィック・リーグ新記録となる打率.385(2000年に自ら記録を更新)を残して首位打者を獲得。 |
| そのほかにも最高出塁率・ベストナイン・ゴールデングラブ賞・正力松太郎賞を獲得し、打者としては日本プロ野球史上最年少でシーズンMVPを獲得した。 |
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| 開幕前の1月17日に発生した阪神淡路大震災によって、本拠地の神戸市が壊滅的な被害を受けた。 |
| イチロー自身も神戸市内にあるオリックスの寮で被災するなど、この年のオリックスは「がんばろうKOBE」を合言葉にスタートした。 |
| イチローは「震災からの復興を目指す神戸のシンボル」的存在として、首位打者・打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率を獲得し、「打者五冠王」に輝いた。 |
| 打点王と盗塁王の同時獲得は日本プロ野球史上初(現在も唯一)のほか、全試合フル出場での首位打者は王貞治(1969年)に次ぐ史上2人目の快挙だった。 |
| 本塁打はリーグ3位タイの25本で、この年に28本放って本塁打王を獲得した小久保裕紀とは3本差であり、日本プロ野球史上前例のない打撃タイトル独占(六冠王)にあと一歩だった。 |
| そのほか、リーグ2位の長打率や当時のパ・リーグ記録となるシーズン18死球に加え、当時の日本プロ野球タイ記録となるシーズン初回表先頭打者本塁打5本を残し、前年に自らが記録した69試合に迫る歴代2位の67試合連続出塁を記録。 |
| 2年連続となるシーズンMVP・ベストナイン・ゴールデングラブ賞・正力松太郎賞も受賞。 |
| チームは悲願のリーグ優勝を達成した。 |
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| 開幕から前半戦まで1番打者として出場し、オールスターゲーム第1戦では初回先頭打者初球本塁打(オールスター史上3人目、パ・リーグ選手では史上初)を放った。 |
| 第2戦では投手として登板し、セ・リーグの野村克也総監督が代打で送った高津臣吾を遊ゴロに打ち取っている。 |
| 後半戦からは打順を変更され、3番に固定。 |
| 前半戦までは打率が1度も.330を超えない状態が続いていたが、3番になってからは調子を上げ、固め打ちが目立つようになった。 |
| 最終的に3年連続となる首位打者を獲得し、猛打賞を26回達成当時、日本プロ野球記録。 |
| 現在日本プロ野球歴代2位)、1試合4安打を8回記録(達成当時、日本プロ野球新記録。 |
| 現在はパ・リーグ記録。 |
| 9月23日の対北海道日本ハムファイターズ戦(グリーンスタジアム神戸)で、延長10回裏にオリックスのリーグ連覇を決めるサヨナラ二塁打を放ち、前年のリーグ優勝時に果たせなかった「神戸での胴上げ」を実現させた。 |
| 日本シリーズでは、第1戦の延長10回に河野博文から決勝本塁打を放つなどの活躍を見せ、1977年以来19年ぶりの日本一に輝き、イチローは優秀選手賞を受賞したほか、3年連続となるシーズンMVPを手にした。 |
| 3年連続シーズンMVPは日本プロ野球タイ記録で、山田久志に次いで史上2人目の快挙。 |
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| この年以降は主に3番打者として出場。 |
| 6月に「209打席連続無三振」の日本プロ野球記録を樹立し、その後の対日本ハム戦で下柳剛から三振するまで、216打席連続無三振を記録した。 |
| 三振の少なさは高校時代から知られており、高校3年時の三振は僅か3つである。 |
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| 張本勲の4年連続を抜いて、日本プロ野球史上初となる5年連続首位打者獲得を達成すると同時に、5年連続・通算5回目となる最多安打を記録した連続回数、通算回数ともにパ・リーグ記録。 |
| 5年連続は長嶋茂雄の6年連続に次いで歴代2位、通算5回は長嶋茂雄の10回、川上哲治の6回に次いで歴代3位。 |
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| 4月20日の対日本ハム戦で金村曉から本塁打を放ち、日本プロ野球史上最速となる757試合目で通算1000本安打を達成。 |
| 7月6日の対西武ライオンズ戦で松坂大輔から通算100号本塁打を打った。 |
| 前半戦だけで19本塁打を記録するなど、1995年以来のペースで本塁打を量産していたが、8月24日の対日本ハム戦で下柳剛から右手に死球を受けて負傷、残りのシーズンを棒に振った。 |
| これにより、1994年の開幕戦から続けていた連続試合出場が、パ・リーグ歴代4位(現5位)の763でストップした。 |
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| 開幕戦から4番に指名される。 |
| 毎試合スタメン出場し、79試合目を終えた時点でも打率.401を残すなど高打率を維持。 |
| 7月には通算10度目となる月間MVP(日本プロ野球記録)を受賞した。 |
| 規定打席到達以降も打率.397を記録し、102試合目終了時まで3割9分台(.3923)を堅持するなど1994年以来の高打率を残していたが、8月27日の対千葉ロッテマリーンズ戦で3回に三塁線へファウルボールを打った際に右脇腹を痛めて途中交代。 |
| 再び残りシーズンを棒に振った。 |
| 10月12日、記者会見でポスティングシステムを利用してのメジャーリーグ挑戦の意向を表明。 |
| 翌日の神戸での本拠地最終戦で9回に守備固めとしての出場した(打席には立たなかった)が、前日の記者会見を聞いたファンの声援に応えるため、イチローは手を振って応え、ファン一人一人と別れの握手をした。 |
| 最終的に、日本プロ野球歴代2位となるシーズン打率.387を記録し、張本勲と並ぶ通算7度目の首位打者(日本プロ野球記録)を獲得。 |
| 6年連続となる最多敬遠(パ・リーグ記録)も記録。 |
| ほか、通算5度目となる最高出塁率、7年連続通算7度目となるベストナイン・ゴールデングラブ賞をそれぞれ獲得した。 |
| 11月10日にシアトル・マリナーズが交渉権を獲得。 |
| 30日に3年総額1400万ドルで正式契約を結び、野手としては日本人初のメジャーリーガーとなった。 |
| メジャーリーグ移籍に関して本人は2000年に移籍と決めていたが、恩師である仰木彬に「もう1年だけ一緒にやろう」と引き留められ、断ることができずにチームに残ったという裏話がある。 |