| 1978年-古巣ジェリェズニチャルでコーチの仕事を始める。 |
| 1979年-ジェリェズニチャルトップチームの監督に昇格。 |
| 1982年-副業的にユーゴスラビア代表チームのアシスタントコーチを務めるようになる。 |
| チームはロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得した。 |
| 1985年-ジェリェズニチャルの監督としてUEFAカップ準決勝まで駒を進めるが敗れ、決勝進出を逃す。 |
| 1986年-ユーゴスラビア代表監督に就任。 |
| 1987年-翌年に行われる欧州選手権の予選最終戦、イングランド代表に1-4で大敗、本大会出場を逃す。 |
| オシムは当時は全く気付いていなかったというが、既にユーゴスラビア分裂の要因となる、民族問題によるプレッシャーがあったのだろうと回想している。 |
| 1990年-FIFAワールドカップイタリア大会でベスト8。 |
| このときの代表メンバーにはストイコビッチ、サビチェビッチらがいた。 |
| -->大会後、代表監督のままパルチザン・ベオグラードの監督も兼務することとなる。 |
| この後ユーゴスラビアの分裂が決定的となる。 |
| 1991年-翌年の欧州選手権の予選通過を決めていたが、この年の夏にスロベニアとクロアチアが連邦から離脱、両国の選手抜きで本大会に臨むことになった。 |
| 3月27日-ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦離脱を受けて、ユーゴスラビア軍がサラエヴォに侵攻。 |
| 直前に仕事のため次男を伴いベオグラードに赴いたため戦火を免れる事が出来たが、夫人と長女はサラエヴォを脱出することが出来なくなった。 |
| 5月21日-サラエヴォ侵攻とユーゴスラビア分裂に抗議する意味を込め、パルチザンとユーゴスラビア代表の監督を共に辞任。 |
| この後、国連の制裁決議を受けて欧州サッカー連盟(UEFA)、国際サッカー連盟(FIFA)はユーゴスラビア代表チームの国際大会からの締め出しを決定する。 |
| 1992年の欧州選手権で優勝を決めたのはユーゴスラビアに代って出場したデンマーク代表であった。 |
| 1992-1993年-ギリシャのパナシナイコスの指揮を執る。 |
| この間戦火のサラエヴォに夫人と長女を残してのギリシャ赴任であった。 |
| 1993年-オーストリア・ブンデスリーガのSKシュトゥルム・グラーツ監督に就任。 |
| 翌1994年、夫人・長女との再会を果たす。 |
| SKシュトゥルム・グラーツの監督としてUEFAチャンピオンズリーグに3度出場。 |
| 2002年-SKシュトゥルム・グラーツ監督を辞任。 |
| 2003年-ジェフユナイテッド市原監督に就任。 |
| 2005年-ジェフユナイテッド市原・千葉にてJリーグヤマザキナビスコカップ優勝。 |
| 2006年-日本代表監督に就任。 |
| 2007年11月16日-千葉県内の自宅で脳梗塞で倒れ、千葉県内にある順天堂大学医学部附属浦安病院に緊急入院 |
| 一時危篤状態に陥ったが奇跡的に一命を取り留め意識も回復。 |
| しかし、監督を続けられる状況ではなくなったため退任し、後任には岡田武史が就任した。 |
| 2008年1月30日-国立競技場で行われた日本対ボスニア・ヘルツェゴビナの試合を観戦し、入院後、約2ヶ月ぶりに公の場に現れた。 |
| 2008年6月4日-日本サッカー協会とアドバイザー契約を締結 |
| 脳梗塞を発症してからおよそ7ヶ月ぶりに会見を行った。 |
| 会見の席で「向こうの世界に行って戻ってきました。 |
| 2011年-民族別に3つに分かれているボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー協会が統合を拒否したためにFIFA、UEFAから資格を停止され、その解決のために設置された「正常化委員会」の委員長に就任。 |