| 「小柄で、活力に満ちた、心の温かい人物。 |
| 誰もが親しみを込めてビリーと呼んだ。 |
| 」(アルフレッド・D・チャンドラー)。 |
| 小柄であったためリトル・ビリーともよばれた。 |
| クラポあるいはクラポーとして一般に表記されるミドルネームの実際の発音は「cray-po(クレイポ)」となる |
| 6歳の頃母子家庭となった。 |
| 母方の祖父が裕福な家庭で、南北戦争時代にミシガン州知事を務めた名士一族であったため、祖父の地ミシガン州フリントに、デュラント10歳の時移った。 |
| 学業途中から働き始めさまざまな職業を経験する中で天性の営業センスを発揮した。 |
| 25歳の時に友人とともに馬車販売会社を起業。 |
| 当初下請けに出した馬車製造も含め、部品製造・組立・内装・塗装を自社グループ企業での垂直統合で効率をあげて大量生産をおこない、一方で全米各地に販売網を整備し、全米最大の馬車製造会社となり40歳を前にミリオネアとなっていた。 |
| それまで嫌っていた自動車だったが、この手腕を買われて40代半ばの1904年につぶれかかったビュイック社事業を請われた。 |
| 技術力はあったが経営力がなく破産寸前だったビュイック社だったが、自身の馬車事業ですでに手がけていた生産の垂直統合、販売網の活用、プロモーション方法をビュイック事業に適用し、短期間で全米トップの売上に成長させ成功させ、同じ新興企業のフォード・モーターなどと全米トップを争うまでになった。 |
| 次いで、ビュイック社を土台とした自動車産業界の企業トラストを目指して、1908年にゼネラルモーターズ(GM)を設立した。 |
| 傘下には2年の間に30もの会社を束ね、ビュイックで行っていた垂直統合を、さらに多数の会社の企業合同による水平統合に拡大した。 |
| この時期の代表的な傘下企業に、オールズモビル、キャディラック、オークランド(ポンティアック)、ACスパークプラグなどがある。 |
| 関わった人物には、チャールズ・W・ナッシュ、ヘンリー・リーランド、ウォルター・P・クライスラー、チャールズ・スチュワート・モット、ルイス・シボレーらがいる。 |
| しかし企業買収による拡大策の中での失敗が財務に影響を与え、1910年に銀行の意向によってGM経営権を剥奪された。 |
| デュラントはGM取締役を兼ねながらGM外で複数の自動車会社を起業した。 |
| 1911年にビュイックレースチームのレーサールイス・シボレーをコンサルタントとして起業したシボレー社だったが、デュラントの意向に沿った低価格大衆車を販売して短期間に人気となった。 |
| デュラントは、ピエール・デュポンの個人的支援を得てGM株を買い戻し、一方でシボレーの成功をばねにシボレー株をGMの株式と交換することで最終的にGMの過半数の株式を所有することに成功した。 |
| シボレー社がGMの最大株主となった。 |
| 1915年にGM経営に復帰したデュラントは再び買収による拡大策に奔走した。 |
| 個人での企業買収さえもしながらGMに吸収させた。 |
| こうして当初はデュラントの個人的な買収企業にいたアルフレッド・P・スローン(後の会長でGM的経営の祖)やチャールズ・F・ケタリング(GM研究所長)などのちにGMを世界の優良企業に築きあげる人物を事業買収と共にGMに迎え入れた。 |
| 1920年、第一次世界大戦後の金融危機にGM株が暴落した。 |
| 株価維持のためにデュラント自ら株の買いざさえに出たが却って莫大な負債を負う結果となった。 |
| GM破綻を恐れたデュポンはモルガン商会の資金援助によって危機を脱した。 |
| デュラントはGMを去り、ピエール・デュポンが後任となった。 |
| デュラントは、自ら創設したGMから追放されても、自身の株取引能力で何度も富豪となった。 |
| GM追放後すぐに自らの名を冠した会社デュラント・モーターズを設立し自らの信じる自動車事業を継続した。 |
| ウォール街での金融取引の中心人物の一人となり「ウォールストリートのブル(雄牛)」と呼ばれた。 |
| 個人的に複数の自動車会社の大株主となり、デュラント社を核とした企業群で再び幅広い購買層のための複数ブランド車種を取り揃えた。 |
| 1929年秋にはじまる世界大恐慌後に会社と自身が破産した。 |
| 70歳を過ぎてなお新規事業に意欲を燃やし、デュラントはレクリエーションやレジャーが次世代産業となると確信して、スーパーマーケット、ドライブインレストラン、ボウリング場などを経営した。 |
| デュラントは死ぬまで自分の信じるところを突き進んだ。 |
| 1947年に85歳で亡くなった。 |
| デュラントの経歴はローラーコースターにたとえられた。 |
| 1885年に結婚し2男1女を儲けた。 |
| 1908年に再婚し生涯をともにした。 |
| 再婚後の子供はいない。 |