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プロフィール
- ウィンストン・チャーチルとは
- 生い立ち
- 従軍
- 政界進出
- 第一次世界大戦期
- 大戦間
- 第二次世界大戦
- 冷戦期
- 評価
- 備考
- 語録
- 架空の名言
- 関連サイト
サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(SirWinstonLeonardSpencer-Churchill,1874年11月30日-1965年1月24日)はイギリスの政治家。1940年から1945年にかけてイギリス戦時内閣の首相としてイギリス国民を指導し、第二次世界大戦を勝利に導く。大戦終結後に再び首相となる。彼の家名(ファミリーネーム)は単に「チャーチル」と呼ばれることが圧倒的に多いが、正式には「スペンサー=チャーチル」という複合姓(二重姓)である。 フランクリン・ルーズベルト、 ダグラス・マッカーサーとは遠戚関係にある。2002年、BBCが行った「偉大な英国人」投票で第1位となった。
生い立ち
| 1874年11月30日にオックスフォードシャー・ウッドストックのブレナム宮殿に生まれる。 |
| ブレナム宮殿は、スペンサー=チャーチル家の祖先マールバラ公ジョン・チャーチルが、スペイン継承戦争中のブレンハイムの戦いで立てた戦功によって当時のアン女王から贈られた大邸宅である。 |
| 父ランドルフ・チャーチルは第7代マールバラ公の息子(三男)で、のちに保守党の領袖となり蔵相などをつとめた有力政治家であった。 |
| また、母はアメリカの銀行家レナード・ジェロームの次女で、社交界の花形であったジャネット(ジェニー)である。 |
| チャーチル誕生時は、それぞれ25、20歳であった。 |
| 幼年時代に寄宿学校(ハーロー校)に入れられ、厳格な教育を受けた。 |
| 生来は左利きだったが右利きになることを強要され、後遺症に苦しめられる。 |
| 彼の学校時代の成績は終始ふるわなかったが、フェンシングは大会で優勝するほどの腕前であった。 |
| サンドハースト王立陸軍士官学校を3度受験してようやく合格した。 |
| ハーロー校入学自体が校長の特別な計らいだったといわれる。 |
従軍
| 180px|thumb|left|将校時代のチャーチル。 |
| 1895年にサンドハースト王立陸軍士官学校を卒業し、騎兵隊少尉に任官した。 |
| その後、軍事顧問としてキューバやインドにおもむき、本国の雑誌に記事を寄せた。 |
| 特に、インドでの通信は『マラカンド野戦軍』という一冊の本にまとめられて評判となり、ときの首相であるソールズベリー侯に面会を求められている。 |
| 1899年のボーア戦争には従軍記者として参加。 |
| ナタールで敵に捕われ、捕虜となるが脱走に成功。 |
| チャーチルの脱走はボーア戦争で敗戦続きだったイギリスにとって、久しぶりに明るいニュースとして伝えられ、チャーチルの知名度を飛躍的に高めた。 |
| その後、アフリカ軽騎兵連隊に入隊し、記者の活動を続けながら戦闘にも従事した。 |
| 除隊後、これらの体験を著書として発刊し、4,000ポンドの収益と名声を手に入れた。 |
政界進出
| 1900年に保守党から下院議員選挙に出馬し、初当選を果たした。 |
| 1904年に、チャーチルは保護関税問題から保守党を離党し、自由党に移籍した。 |
| 1906年の総選挙で自由党が勝利するとその有力政治家として頭角を現し、植民地相次官、商務相、内務相を歴任した。 |
| 1908年、11歳年下のクレメンタイン(1885年-1977年)と結婚した。 |
| 夫婦仲は良好で、1男4女をもうけた。 |
| 末子のメアリー(1922年-)のみが、2010年現在も存命である。 |
| 彼女は父とポツダムに同行しており、1979年には母の伝記を出版している。 |
第一次世界大戦期
| 1911年、チャーチルは海軍相となり、在任のまま第一次世界大戦を迎えた。 |
| しかし、敵国となったオスマン帝国の首都イスタンブルの入り口であるダーダネルス海峡制圧をねらって彼が推進したガリポリの戦い(1915年)は、意見対立から陸軍の援護が無くイギリス軍の惨憺たる敗北に終わり、チャーチルは「ガリポリの肉屋(屠殺者)」と批判され、内閣を去らねばならなかった。 |
| この敗戦はしばらく尾を引き、議会で何か提案すると「またダーダネルスか」と野次られ、皮肉られた。 |
| この時から絵筆をとり、以後の50年間に500点以上の作品を残した。 |
| 繊細で穏やか、かつカラフルな風景画が特色である。 |
| 1930年代の「荒野の10年」と自ら呼んだ時代の作品が多い。 |
| 「PaintingAsaPastime」という著書もある。 |
| 1917年にチャーチルはロイド・ジョージ内閣の軍需相として政権に復帰し、戦争推進のために意欲的に働いた。 |
大戦間
| 1919年以降はロシア革命に対する干渉を露骨に実施する役割を果たした。 |
| 1921年にチャーチルは植民地相に転じ、アイルランド自由国の独立を認めた英愛条約(イギリス=アイルランド条約の交渉団に加わっていた。 |
| 1922年には落選して政権を去ったが、この間「反社会主義」の立場を鮮明にして保守党に再接近した。 |
| 1924年の選挙では保守党支持で立候補して当選し(翌年正式に入党)、スタンリー・ボールドウィン内閣の財務相に就任した。 |
| 1929年に、保守党が選挙に敗北した後は再び政権から離れ、1931年に発足したラムゼイ・マクドナルド挙国一致内閣にも入閣しなかった。 |
| この不遇の時期、彼は先祖のマールバラ公の伝記執筆などの著作や描画に専念した。 |
| 1934年-1936年にチャーチルは、ラルフ・ウィグラム(Ralph_Wigram)によって入手された、ナチス党政権下のドイツの再軍備化の情報をデスモンド・モートン(Desmond_Morton_(officer))より得た。 |
| その情報を元にチャーチルはスタンリー・ボールドウィン内閣を攻撃した。 |
| ラルフ・ウィグラムの情報はRobertGilbertVansittartの懸念を裏付けるものだった。 |
| OtherClubの仲間で後1945年に新しいフィナンシャル・タイムズを設立するBrendanBrackenも同意見で、チャーチルの閣僚入りを大いに助けた。 |
| しかし1936年にラルフ・ウィグラムは不審な死を遂げた。 |
| 後にチャーチルは五巻の第二次世界大戦の本のなかで彼を「greatunsunghero」と述べている(この事件を描いた映画が"TheGatheringStorm"である)。 |
第二次世界大戦
| 200px|thumb|Vサインをするチャーチル。 |
| 200px|thumb|ヤルタ会談にて、左からチャーチル、ルーズベルト、スターリン。 |
| 200px|thumb|北大西洋条約機構|NATO本部にて、左からチャーチル、アイゼンハワー、モントゴメリー(1951年)。 |
| 1939年9月にポーランドに侵攻したアドルフ・ヒトラー率いるドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまると、チャーチルは内閣に招かれて再び海相に就任した(この時海軍は「ウィンストンが帰ってきた(Winstonisback)」と艦隊に発信している)。 |
| 1940年にはネヴィル・チェンバレンの後任として首相に任命され、みずから国防相を兼任して陸海空の参謀総長(海軍については第一海軍卿)を直接指揮する形をとり、挙国一致内閣を率いて戦時指導にあたった。 |
| この頃の個人秘書がJockColvilleである。 |
| チャーチルはラジオや議会での演説を通じて国民に戦争協力を呼びかけ、総力戦を組織化していき、ドイツ空軍による「バトル・オブ・ブリテン」を勝利に導いた。 |
| さらに1941年には、中立を保っていたアメリカ合衆国のフランクリン・D・ルーズベルト大統領との協力の下、武器貸与法に基づきアメリカからの武器貸与を受ける手はずを整えた。 |
| ハスティングス・イズメイ(HastingsIsmay)の協力もありそのように強力な指導力を見せることが出来た中、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦に伴い日本と対決したマレー沖海戦では、大日本帝国海軍の攻撃により東洋艦隊の新造戦艦2隻を失い、後に著書の中でこの出来事を「第二次世界大戦中もっとも衝撃を受けたことだ」と記している。 |
| その後もイギリス軍は日本軍に対して敗退を続け、海峡植民地や香港、ビルマを失った上に、セイロン沖海戦でも敗退し空母を失うなど大打撃を受けた。 |
| また、エル・アラメインの戦いやハスキー作戦で勝利を収めたものの、アメリカ陸軍のジョージ・パットン将軍と個人的な衝突をおこした他、ドワイト・D・アイゼンハワー将軍とも対立したバーナード・モントゴメリー陸軍少将の処遇にはかなり手を焼いている(この頃を描いた映画が"IntotheStorm"である)。 |
| 更に日本軍の侵攻の危機にさらされたオーストラリアの防衛を巡って、ロンドンに派遣されていたオーストラリア外相のハーバート・エバットとも衝突した。 |
| しかしその後、アメリカやソビエト連邦などの他の連合国との協力関係を元に戦局を挽回し、戦争が終結に近づくと、ヤルタ会談やポツダム会談などに参加して戦後体制の策定にも携わった。 |
| しかし、大戦の終わる直前の1945年7月におこなわれた総選挙で保守党はクレメント・アトリー率いる労働党に敗北した。 |
| 敗北が確定したのはポツダム会談中だったため、同行していたアトリーに全権を委ねて帰国することになった投票自体は7月5日であったが、戦争で全世界に駐留する将兵の不在者投票分の集計に手間取り、このような形になった。 |
冷戦期
| その後、ハリー・S・トルーマンの招きでアメリカを訪問し、各地で演説を行ったが、1946年3月5日にミズーリ州フルトンで行った演説でヨーロッパの東西分断を評した「鉄のカーテン」演説を行い、自由主義陣営の盟主のアメリカと、共産主義陣営のソビエトを軸にした冷戦の到来を予言した。 |
| 1951年の総選挙で保守党が勝利すると、チャーチルは再び首相に就任したが、2度目の政権は国際問題に悩まされ、大英帝国の衰退を告げる下り坂の時代に終始した。 |
| また、脳卒中の発作にも悩み、アンフェタミンを服用しなければ演説が出来ないほどまでに体力は低下していた。 |
| アトリー労働党政権とは逆に、鉄鋼や運輸分野において非国有化を行った。 |
| また、選挙の年にはイランでモハンマド・モサデク首相がイギリス系の石油会社アングロ・イラニアン石油の国有化を宣言し、イランの石油権益が失われた。 |
| 植民地ケニアではキクユ族による抵抗運動から1952年に非常事態宣言が発令されてマウマウ戦争に発展し、イギリスは植民地政策の転換を迫られた。 |
| マレーシアでも独立の機運が高まって反英ゲリラの闘争が頻発し、近い将来にマレーシアが独立することを承認せざるを得なくなった。 |
| 1955年、チャーチルは首相職をアンソニー・イーデンに譲り引退した。 |
| 1952年に即位したエリザベス2世は新たにロンドン公爵位を創設しチャーチルに与えようとした。 |
| 父と同じく政治家を目指していた息子のランドルフは下院議員となる資格を失うことを恐れ反対したためこの話は実現しなかった。 |
| 1963年にはアメリカから名誉市民権を贈られたが、その頃には頻繁に心臓発作をくり返すようになり、式典に出ることができなかった。 |
| 1965年1月15日に脳卒中で倒れ1月24日午前8時(日本時間午後5時)頃に息を引き取った。 |
評価
| チャーチルは非常に英雄主義的な考えを持った政治家であり、政治や文学にその才能を発揮した。 |
| 第二次世界大戦の困難な時期に、彼は強い意志と楽観主義をもって、憔悴したイギリス国民を激励した。 |
| これは、チャーチルには、幼少時から、ハンニバルやカエサル、ナポレオンなどの英雄に対する強い憧れがあり、それに後述する躁うつ症状が重なったことが大きく影響したとする。 |
| 彼は下院議員に当選後も積極的に執筆活動を続け、海軍大臣として第一線で活躍した第一次世界大戦を書いた作品や自分自身の先祖ジョン・チャーチルや父ランドルフ・チャーチルを書いた伝記など多数を執筆。 |
| 日常ではジョークの名手かつ毒舌家であり、ある女性議員から「私があなたの妻だったらあなたの飲む紅茶に毒を入れるでしょう」と皮肉られたところ、「私があなたの夫だったら喜んでその紅茶を飲むでしょう」と平然と言い返したという話は有名で、女性議員を悔しがらせたと伝えられる。 |
備考
| 国会会期中であっても昼寝ができるように議事堂内にチャーチル専用のベッドが用意されていた。 |
| 医学的にも適度な昼寝は心身の疲れを取りストレス解消につながることが指摘されており、チャーチルが不健康であったにもかかわらず長命であったのも昼寝の効用であったとする専門家もいる。 |
| トレードマークの葉巻はキューバ産の「ロメオ・イ・フリエタ」やフィリピン産の「タバカレラ」を愛用した。 |
| 1929年10月24日、たまたまウォール街を見学に訪れていたため、世界恐慌の引き金となった、いわゆる「暗黒の木曜日」を目の当たりにした。 |
| チャーチルが飼っていたコンゴウインコのチャーリーは、2004年に104歳の誕生日を迎えた。 |
| ヴィエナ自身はそれほど活躍しなかったが、のちに産駒ヴェイグリーノーブルが競走馬だけでなく種牡馬としても活躍し、1980年代の競馬界におけるオリオール系の繁栄の一端を担った。 |
語録
| アレキサンダーや、シーザーや、ナポレオンが兵士達と共に危険を分かち合い、馬で戦場を駆け巡り、帝国の運命を決する。 |
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1874年
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オックスフォードシャー・ウッドストックのブ... |
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サンドハースト王立陸軍士官学校を卒業し、騎... |
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